つてゐる傍で、彼女の乳母が、まだ其の理由を知らないながらに、彼女を慰めてゐる。
[#ここから1字下げ]
「人間の生活といふものは、苦しみで一杯でございます。その不幸には休みといふものがございません。しかし、若し人間のこの生活よりもつと快いものが假りにあるとしても、闇がそれを取圍み、我々の眼から隱して了つてゐます。それに此の地上の存在といふものは燦かしいやうに見えますので、私共は狂人のやうにそれに執着するのでございます。何故と申しまして、私共は他の生活を存じませんし、地下で行はれてゐることに就いては何も知る所がございませんから。」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな言葉を思出しながら、周圍の墓々を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと、死者達の哀しい執着が――「願望《ねがひ》はあれど希望《のぞみ》なき」彼等の吐息が、幾百とも知れぬ墓處の隅々から、白い靄となつて立昇り、さうして立罩めてゐるやうに思はれる。

 ルクレティウスを竟《つひ》に開かないまゝに、私は腰を上げる。海の上の烟つた灰色の中から、汽笛がしきりに聞えてくる。傾斜した小徑を私はそろ/\下り始める。



底本:「中島
前へ 次へ
全44ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング