て了ふのだ。
 考へて見れば、大體、今迄の生き方が、まあ何といふ無意味な生き方だつたか。精神の統一集注を妨げることにばかり費された半生といつてもいい。とにかく私は自分を眠らせ、自分の持つてゐるものを打消すことにばかり力を盡くして來たやうなものだ。
 曾て自分にも多少は感覺の良さがあつた時分には、私はそれにのみ奔ることを惧れて、自分の欲しもしない・無味な概念のかたまりを考へることによつて感覺を鈍くしようと力めた。さうして、結局凡ての概念が灰色[#「灰色」に傍点]だと知つた時、又、自分が苦心の結果取除くことに成功したところのものが、如何に黄金なす緑色[#「黄金なす緑色」に傍点]をなしてゐたかを悟つた時には、すでにそれを取返す術《すべ》を失つてゐるのだ。私が曾て、かなり確かな記憶力を有《も》つてゐた頃、私は之を輕蔑した。記憶力しか有《も》つてゐない人間は、足《た》し算しか出來ない人間と同じだと云ひ、自分のこの力を撲滅しようとした。之は隨分無理なことだつた。で、少くとも、之を利用することだけは避けるやうにした。さて、人間生活の多くの貴い部分が、最も基礎的な意味に於て精神の此の能力に負うてゐるこ
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