で、今度は、昨日、或る先輩から紹介されて、縣の學務部長に會ひに行つた話を始めた。學務部長が非常に款待してくれて、又遊びに來給へ、と肩を叩かんばかりにして呉れたこと、だから、これからも時々伺はうと思つてゐること、この學務部長さん(彼はさん[#「さん」に傍点]をつけ、このやうな高官に衷心からの尊敬を抱かないやうな人間の存在は、想像することも出來ない樣子である)は從×位、勳×等で、まだ若いからもつと大いに出世されるであらうこと、この人の夫人の父君が内閣の某高官であることなど、恐懼に堪へないやうな語り口で話した。全く、先刻《さつき》の悲憤をまるで忘れて了つたやうな幸福げな面持である。

 吉田が歸つてから、幸福といふことを一寸考へて見る。躍氣となつて騷ぎ立て他人に自分の立場を諒解して貰ふことが、彼にとつての幸福であり、役人と近づきになることが彼の最大の愉悦なのだ。それを嗤ふ資格は私には無い。嗤つたとしても、それでは、私にどんな幸福があるといふのだ。「衆人熙々トシテ大牢ヲ享クルガ如ク、春、臺ニ登ルガ如シ。我獨リ怕兮トシテ、嬰兒ノ未ダ咳《ワラ》ハザルガ如ク、儡《ツカ》レテ歸スル所ナキガ如シ。俗人昭々トシテ我獨リ昏《クラ》キガ如ク、俗人察々トシテ我獨リ悶々タリ。……」學務部長に隨喜の涙を流す吉田の姿が、急に、皮肉でも反語でもなく、誠に此の上無く羨ましいものに思はれて來た。

 夜、床に就いてから、先刻の吉田の、脅迫云々の言葉を思ひ出し、向ふつ氣は頗る強いが腕力の無い吉田が、其の時どんな態度をとつたか、と考へて見たら、をかしくなつて來た。自分だつたらどうするだらうと、考へて見た。
 まことに意氣地の無い話だが、私は、暴力――腕力に對して、まるで對處すべき途を知らぬ。勿論、それに屈服して相手の要求を容れるなどといふ事は意地からでもしないけれども、たとへば、毆られたやうな場合、どんな態度に出ればいいのだらう。此方に腕力が無いから毆り返す譯には行かぬ。口で先方の非を鳴らす? さういふ時の自分の置かれた位置の慘めさ、その女のやうな哀れな饒舌が厭なのである。その位なら、いつそ超然と相手を默殺した方がまし[#「まし」に傍点]だ。併し其の場合にも猶、負惜しみ的な弱者の強がりが、(傍人に見えるのは差支へないとして)自分に意識されて立派とは思へない。といふよりも、私は、他人との間に暴力的な關係に陷つ
前へ 次へ
全22ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング