や》みしに引《ひき》かえ、我に飛行の術あらば、暫《しば》しなりとも下界に下《お》りて暖かそうな日の光に浴したしなど戯《たわ》むれをいいしことありたり、実に山頂は風常に強くして、殆《ほと》んど寧日《ねいじつ》なかりしなり、然《しか》れども諸般《しょはん》の事《こと》やや整理して、幾分|安堵《あんど》の思《おも》いをなし、室内に閑居《かんきょ》するに至《いた》るや、予が意気豪ならざる故といわんか、将《は》た人情の免れざる所ならんか、今までは暇《いとま》なくて絶えて心に浮ばざりし事も、夜半観測の間合《まあい》などには暖炉に向いながら、旧里《ふるさと》に預《あず》け置きたる三歳の小児《しょうに》が事など始めて想い起せし事もありたり。
かくの如くにして、やや堵《と》に安んぜんとするを、造化はなお生意気《なまいき》なりと思いしか、将《は》たまた更《さら》に予を試《こころ》みんとてか、今回は趣向を変えて、極めて陰険なる手段を用いジリジリ静かに攻め来りたり、そは他に非《あら》ず、気圧の薄弱これなり、人の知る如く、平地の気圧は、大抵七百六十|耗《ミリ》前後なるに、山頂は四百六十耗前後にして、実に三百耗の差あり勿論夏期とてもなお同様なりといえども、寒気増進するに及びては、ますます低落の傾きあり、故に静座するもなお胸部の圧迫を覚え、思わず溜息《ためいき》を吐《つ》くことあり、いわんや労働するに於ては、呼吸ますます逼迫《ひっぱく》するを覚ゆ、しかも先きの攻め道具たりし寒気と風力とは、ますます猛烈を加うるのみにして、更にその勢《いきおい》を減ずることなし、剰《あまつ》さえ強猛なる寒気は絶えず山腹の積雪を遠慮会釈《えんりょえしゃく》なく逆《さか》しまに吹上げ来り、いわゆる吹雪なるものにして、観測所の光景はあたかも火事場に焼け残りたる土蔵の、白煙の中《うち》に包まれたるに似たり故に一|天《てん》拭《ぬぐ》うが如く快晴なるも、雪は常に降れるに異ならず、実に平壌《へいじょう》の清兵《しんへい》も宜《よろ》しくという有様にて、四面包囲を受けしなり、ために運動意の如くならず、随て消化力減少して食気更に振わざるを以て、食物総て不味《ふみ》にして口に入らず、およそ食事の如きは普通かかる場所に於ける娯楽の一とする所なるに、今は殆んどこれをしも奪い去られたれば、あます所は観測時に測器に示す所の諸般の現象を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]して、以て無上の楽《たのし》みとするの一事あるのみ、実に造化の作戦計画は、あたかも真綿を以て首を締むるが如き手段なりしなり、しかも予らは屈せずして、これに堪えつつありしに、ここにまた二個の憂うべき事併発し来りたり、他にあらず、電池の破壊と、風力計の破損のために、爾来《じらい》風力を測《はか》る能《あた》わざるに至りし事、及び妻《さい》の浮腫病《ふしゅびょう》これなり、しこうしてこの病《やまい》や、実にこれ味方敗北の主因となるに至りしこと、後に至り大《おおい》に思い当りたるなり。
湿球寒暖計は、夙《つと》に測る能わざるに至り、大に楽みを殺《そ》がれし心地せしが、今また暖炉の傍《かたわら》に、置ける電池|凝結《ぎょうけつ》して破壊し、ために発電するに由《よし》なく、また風雨計の要部を蔽《おお》う所の硝子板《がらすいた》紛砕して、内部に氷雪|填充《てんじゅう》し全くその用を為《な》さざるに至りしかば、更に大に楽みを殺がれたり。
初め予が種々の事情により、単身越年を為《な》さんと決するや、妻《さい》これを憂《うれ》い独《ひと》り密《ひそ》かに急行、小児を郷里の父母に托して登山し来るに就きては、幾分心を労することもあるなるべし、その結果妻は十一月上旬に至り、甚《いた》く逆上し、ために平素往々|患《うれ》うる所の、扁桃腺炎《へんとうせんえん》を[#「扁桃腺炎《へんとうせんえん》を」は底本では「扁桃腺災《へんとうせんえん》を」]誘起し、体温上昇し咽喉《いんこう》腫《は》れ塞《ふさ》がりて、湯水《ゆみず》も通ずること能わず、病褥《びょうじょく》に呻吟《しんぎん》すること旬余日、僅かに手療治《てりょうじ》位にて幸に平癒《へいゆ》せんとしつつありしが、造化は今の体《たい》の弱みに乗じたるものならんか、いわゆる富士山頂の特有とも称すべき、浮腫《ふしゅ》に冒《おか》され、全身次第に腫《ふく》れて殆んど別人を見るが如き形相となりたり、この浮腫《ふしゅ》ということは、山頂に於て多少|免《のが》るる能わざるものなることを、後《のち》にこそ知るを得たるなれ、当時は初めてにして、特に医業の門外漢たる予らには、なおさらその原因を極むるに由なく、少《すくな》からず心を痛めたり、もとよりその辺の用意は一と通り為《な》したりしも、かかる病魔に襲われんとは、全く思
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