これより先《さ》き小厠《こづかい》を一|人《にん》使用するの必要は無論感ずる所なりしといえども、強《しい》てこれを伴《ともな》わんとすれば、非常に高き賃金を要し、また偶《たまた》ま自ら進んで、越年を倶《とも》にせんことを言い出《い》でたる者なきに非《あら》ずといえども、これらは平素単に強壮と称するのみにして、衛生上何の心懸《こころが》けもなく、終日原野に出《い》でて労働に慣れし身を以て、俄《にわ》かに山巓《さんてん》の観測所に閉居するに至らば、あるいは予よりも先《さ》きに倒るることなきを保《ほ》せず、殊《こと》に幾分測器の取扱《とりあつかい》位は、心得あるを要するがゆえに、遂《つい》にこれを伴わざるに決したり。
然《しか》るに荷物の整理いまだその緒《ちょ》に就《つ》かざるを以て、観測所の傍《かたわ》らの狭屋《きょうおく》に立場もなきほど散乱したる荷物を解き、整理を急ぐといえども、炊事《すいじ》を為《な》す暇だになければ、気象学会より寄贈せられたる鑵詰を噬《かじ》りて飢《うえ》を凌《しの》ぎ、また寒気次第に凜冽《りんれつ》を加うるといえども、器具散乱して寝具を伸ぶべき余地なく、かつ隔時観測を為しつつあるを以て、睡眠の隙《すき》を得ず、加うるに意外の寸隙《すんげき》より凜冽なる寒気と吹雪との侵入|烈《はげ》しきを以て、これを防ぐに忙《せ》わしく到底睡眠せんと欲するも能《よ》くすべからず、予は時なお十月初めなれば、かくまでにあるべしとは想《おも》わざりしに、実に意想外の事のみなれば、この前途|如何《いか》にあるべきかといささか心痛せしが、ここぞ勇を奮うべき時ぞと奮発し、幸い近所合壁はなし、ただ一人故障をいう者もなければ、それより昼夜の嫌《きら》いなく、鼻歌など謡《うた》いつつ、夜を日に継ぎて、ガチガチコツコツと、あるいは棚を釣り、薪《まき》を割り、殆《ほと》んど十二、三日間、征衣《せいい》のまま昼夜|草鞋《わらじ》を解かず、またその間にはしばしば降雪に遇《あ》い、ために風力計|凝結《ぎょうけつ》して廻転を止《とど》むるや、真夜中に斫《き》るが如き寒冽なる強風を侵《おか》して暗黒《あんこく》裡《り》に屋後《おくご》の氷山に攀《よ》じ登り、鉄槌《かなづち》を以て器械に附着したる氷雪を打毀《うちこ》わす等、その他千種|万態《ばんたい》なる困難辛苦を以て造化の試験を受けてやや整頓の緒《ちょ》に就かんとせし所に、図《はか》らずも妻《さい》登山し来《きた》りたり、それより飲料に供すべき氷雪の収拾、室内の掃除、防寒具の調製、その他|炊事《すいじ》一切《いっさい》の事を同人に一任し、予は専《もっぱ》ら観測に従事し、やや骨を休むることを得て、先《ま》ずこれまでの造化の試験を恙《つつが》なく、及第することを得たりしなり。
然るに造化は更らに鋭利なる武器を以て、短刀直入し来りたり、そは他にあらず、寒気と強風これなり、寒気は日々厳烈を加え、風力また強大になり、岩角に触れて怒号する音|轟々《ごうごう》として、一月中僅かに二、三日を除くの外《ほか》昼夜止むことなし、従《したがっ》て飲料に充《あ》つべき氷雪の収拾等の外出容易ならず、加うるに門口《かどぐち》の戸氷結して、容易《たやす》く開くこと能わず、折節十月三十日頃なりしかと覚ゆ、彼《か》の有名なる報効義会員二人にて、剛力を伴《ともな》い、郡司氏《ぐんじし》の厚意を齎《もた》らし来訪せられし時の如き、前日は風力猛烈なりしため、八合目より一旦《いったん》七合に引返したりといえり、二人は山頂の光景を見て、如何《いか》に感じけん、予に向いて、焉《いずく》んぞこれ千島《ちしま》の比《たぐ》いならんや、君《きみ》は如何にして越年を遂げんとするか、前途憂慮に堪えずと曰《い》われたり、十月末の光景を見て、既にこの言あり、進んで十二月に入りては、実に平地に在《あ》りて想像の及ばざるものあり、かくの如き有様なるを以て、重要の外は外出を為《な》さずこれかえって健康を害するの恐れあればなり、(外出の難《かた》かるべきは予期せる所なりしを以て、運動に供せんため自ら室内|操櫓器《そうろき》と名《なづ》くる者を携え行きたりしが室内狭くしてしばしばこれを用ゆること能わざりし)故に僅かに狭少なる※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]《まど》によりて下界を瞰下《みおろ》し、常に山頂の風力の強暴なるに似ず、日光の朗《ほが》らかなるを見て、時として妻《さい》などはもし空気が目に見ゆるものならば、この烈《はげ》しき風を世人《せじん》に見せたし、下界の人は山頂も均しく長閑《のどか》ならんと思うなるべし、彼《か》の三保の松原に羽衣《はごろも》を落して飛行《ひぎょう》の術を失いし天人《てんにん》は、空行く雁《かり》を見て天上を羨《うら
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