のであった。親たちが、自分の生んだ者に対して負うた義務を深く意識し、それに二人を元気づけた精極的な思いやりの精神を加えたので、私が子どものころのあらゆる機会を通じて忍耐、慈悲心、自制というようなものを教えこまれたこと、一本の絹のような綱で導かれたために、私にとってはすべてが一連の楽しみとしか見えなかったことは、想像がつくだろう。
 長いこと私は、両親の世話をひとり占めした。母は女の子をほしがっていたが、依然として私は一人っ子であった。私が五つぐらいのころ、イタリアの国境を越えて旅をし、コモ湖の岸で一週間ばかり過ごしたことがあった。両親はそこで、その情深い気性から、貧乏人の小舎にたびたび出かけて行った。これは母には義務どころの沙汰ではなかった。苦しんでいる者に対して、今度は自分が護りの天使の役にまわる番であった母にとっては、――自分がどんなに苦しみどうして救い出されたかを思い出せば――ひとつの必然、ひとつの情熱であったのだ。あるとき、こういう散歩の途中で、とある谷蔭の貧しい小屋が、とくべつにうら悲しく立っているのが目についたが、そのまわりにたくさん集まっている半裸体の子どもたちを見ても、
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