始めはしないぞと自分の心におごそかに誓い、それから足をぶるぶるさせながら居間にひきこもった。私はひとりきりだった。この暗澹たる気分を追いはらって、胸のわるくなるような怖ろしい幻想の圧迫から救ってくれる者は、近くに一人もいなかった。
 数時間が過ぎ、私は窓の近くに腰かけたまま海を眺めていた。ただ数隻の漁船が海上に点在しているだけで、ときどき微風が、呼び交わす漁夫の声を運んできた。私は、深い深い静けさを意識したわけではないが、夜の静けさを感じてはいた。そのうちにとつぜん、私の耳に、岸辺の近くで櫓を漕ぐ音が聞え、私の家の近くで人が上陸する音が聞えた。
 二三分経ってから、誰かがそっと開けようとしているらしく、扉のきしる音が聞えた。私は、頭のてっぺんから足の先まで慄えあがり、誰が現われたかを感じて、私の家から遠くない所に住んでいる百姓の一人を呼び起したいと思ったが、よく、恐ろしい夢のなかで、さしせまった危険から逃れようとしてもできない時に感じるような、腑ぬけた感情に圧しつぶされて、その場にじっとして動かずにいた。
 すると、廊下に足音が聞え、扉が開いて、恐れていたやつか姿を現わした。そいつは扉を閉めて私に近づき、声を殺して言った。
「やりはじめた仕事をぶちこわしたね。それはどういうつもりなの? 約束を破る気だね? わたしは、つらさ、みじめさを堪えしのんできた。あんたといっしょにスイスを立ち、ライン河の岸に洽って、柳の生えた島々のあいだを通ったり、山のてっぺんを越えたりしがなら、わたしは人目を忍んで歩いて来た。イングランドの荒地やスコットランドの荒野に何箇月も住んだ。言いようのない疲労と寒さと飢えに堪えてきたんだ。そのわたしの願いを踏みにじる気かね?」
「出て行け! 約束は破るよ。おまえみたいな、できそこないの邪悪なやつを、もう一人つくる気はないのだ。」
「腰抜けめ、このまえ筋みちを立てて話して聞かせたが、おまえはわたしの謙遜に価いしないことを証明したね。おれに力があるのを知らないか。おまえは自分が不幸だと思いこんでいるが、おれは、おまえが日中の光を憎むほどひどい目にあわせることができるぞ。おまえは造りぬしだが、おれはおまえの主人だ――いうことをききないさい!」
「僕は煮えきらなかったが、もうそれもやめた。おまえがいくら脅迫したって、それに負けて邪悪な行動を取ったりはしないぞ。それはかえって、おまえに悪事の相棒をっくってやらぬという決意を、固めさせるだけのことだ。死や惨事を見て喜ぶような悪魔を、冷静な気もちでこの世に野放しにできるものか。出て行け! 僕の決心は変らないぞ。おまえの言うことは、僕の怒りを昂ぶらせるだけだ。」
 怪物は私の顔に決断をみとめ、怒りのもどかしさに歯ぎしりした。「人間の男はみな妻を見つけて抱き、動物もそれぞれ相棒をもっているのに、おれはひとりぼっちなのか。おれは愛情をもっているが、それが嫌悪と軽蔑で報いられた。おい! おまえは憎むかもしれないが、気をつけろ! おまえの一生が怖ろしいみじめなものになり、やがておまえから永久に幸福を奪い去らずにおかぬ電戟が、おみまいするからな。こんなみじめなありさまでおれが匍いずりまわっているというのに、おまえが幸福でいてよいものかね? おまえは、おれのそのほかの情熱を枯らすことができるとしても、復讐心だけは残るよ――これからは光や食べものよりもたいせつな復讐心だけは! おれは死ぬかもしれないが、まず、おれの暴君、おれの苦しみの種であるおまえを、自分の不幸を見下ろす太陽を呪うようにしてやる。気をつけろ、おれは恐れないし、力があるからな。おれは、毒牙で咬んでやるために、蛇の狡猾さでもって見守ってやる。やい、ひどい目にあって後悔するな。」
「畜生め、黙れ。そんな悪意のこもった声で空気を毒さないでくれ。僕は僕の決意を言いきったし、おどし文句に屈するほど臆病でもないぞ。出て行け。言ったってむだだ。」
「よろしい。行くよ。しかし、おぼえてろ、おまえの結婚の夜には行くからな。」
 私は身をのりだして叫んだ、「悪党め! 僕の死刑執行命令書に署名する前に、自分が安全でいるかどうか確かめろ。」
 私はつかまえようとしたが、怪物は身をかわして、まっしぐらに家を飛び出した。それから二、三分経つと、そいつが小舟に乗っているのが見えたが、その舟は矢のような速さで海をよこぎり、やがて波のあいだに見えなくなった。
 すべてがまた静かになったが、怪物のことばは耳のなかでひびいていた。私は怒りに燃え、私の平和を台なしにしたやつを追いかけて、海にたたきこんでしまいたかった。私は、気がせき、心みだれて、部屋じゅうをあちこち歩きまわったが、そうしているあいだにも、自分を苦しめ痛める想像を数かぎりもなく想い描いた。どうしてあい
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