で、かつ二つは共に道徳の原理に密接に依存しているのであるが、それらは分《わか》たれて一方所有権の理論は生産理論に、他方租税の理論は消費理論に投げ込まれ、共に全く経済的な観点からその理論が立てられている。反対に明らかに自然現象の研究としての性質を具《そな》えている交換理論は分配理論の一部をなしている。もっとも彼の弟子らはこれらの勝手な分類を自由に解釈して、ある者は交換価値の理論を生産理論の中に、ある者は所有権の理論を分配の理論の中に、任意に組み入れている。このようにして今日の経済学は形成せられ教授せられている。しかしこれでは枠が破れていて、ただ表面的に維持されているに過ぎないのではないか。そしてかかる状態においては、経済学者の権利と義務とは、まず入念に科学の哲学を研究することにあるのではあるまいか。
 九 セイの弟子らのある者は、セイの定義の欠点を知っていたが、あえて修正しなかった。アドルフ・ブランキ(Adolphe Blanqui)はいっている。「ドイツ並びにフランスでは、今日経済学は、一般に考えられている領域を脱出している。ある経済学者は経済学を普遍的科学となそうとし、他の人は狭いか
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