ペリエ(Montpellier)市の人であったが、一八三〇年にエヴルーの中学校の修辞学の教師となり、一八三三年には同校の校長となった。一八三四年に、この町で Louise−Aline de Sainte−Beuve と結婚した(一)[#「(一)」は行右小書き]。この同じ年にレオンが生れたわけである。オーギュストは一八三五年十一月までこの職にあったが、辞職の後、大学教授を目指してパリに移り、一八三九年までここで教授資格試験の受験準備をした。この年、リーユ(Lille)の中学校の哲学教授となり、一八四〇年には、カーン(Caen)の中学校に転じ、一八四六年に、カーン大学の文学部のフランス修辞学(〔e'loquence franc,aise〕)の講師となった。一八四七年、学位論文 〔Le Cid, esquisse litte'raire〕 によって、文学博士(〔Docteur−e`s−lettres〕)を授けられた。その後は視学官として、Nancy, Caen, Douai, Pau 等に転任している。これらの生活を通じてオーギュストが専門とした学問はフランス語学・文学・哲学であったのであるが、エヴルーの教師時代から経済学の研究が常に彼の大なる興味をひきつけていた。その間、かなり多数の経済学上の論文を公にしているのみならず、一八三一年には、「富の性質及び価値の源泉について」(De la nature de la richesse et de l'origine de la valeur. Paris.)を公刊し、一八四九年には「社会的富の理論、経済学の基本原理の要約」(〔The'orie de la richesse sociale, ou Re'sume' des principes fondamentaux de l'e'conomie politique. Paris.〕)を公刊している。これらの二書は、レオンの思想に重大な影響を及ぼしたものとして、重要視すべきものである。レオン自身もこのことを認めている(二)[#「(二)」は行右小書き]。単に価値の心理的観方をなした点においてのみならず、また経済学を数理的科学でなければならぬと考えた点においても、父の思想はそのままレオンの思想となっているのである(三)(四)[#「(三)(四)」は行右小書き]。
 レオンは、一八五一年、文科
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