D−J. Proudhon. Paris.〕)を公にした。また同年七月、ローザンヌに開かれた国債租税会議に列席した。また同年ヴォー(Vaud)州が募集した租税に関する懸賞論文に応じた。一八六一年に出版された「租税理論批判」(〔The'orie critique de l'impo^t. Paris.〕)がそれである。プルードンの「租税理論」(〔The'orie de l'impo^t. Paris.〕)が第一等賞となり、レオンは第四等となった。
レオンは一八六五年に至るもなお一定の職業を得なかったが、この頃|盛《さかん》になりつつあった協同組合運動に加わり、同年「庶民組合割引銀行」(Caisse d'escompte des associations populaires)の理事となり、これが一八六八年に破産するに至るまで、それに従事した。その間、あるいは協同組合運動に関する公開講演をなし、あるいは 〔Le'on Say〕 と共にこの運動の週刊雑誌「労働」(Le Travail)を発刊した。ひとたびこの雑誌に公にされた一八六七年と八年の公開講演「社会理想の研究」(〔Recherche de l'ide'al social〕)は一八六八年、単行書として出版された。その後銀行員となったりしているうちに、一八七〇年六月、レオンはルイ・リュショネー(Louis Ruchonnet)の来訪を受けたが、氏は近くローザンヌ大学に経済学講座が開設せられるべきことを報じ、かつその教授候補者となることをレオンにすすめた。レオンはこのすすめに応じ、この受験準備のため、八月七日ノルマンディーに赴き、静かな環境のうちに勉強した。試験官は州の名士三名と経済学者四名から成っていた。これら三人の名士はワルラスの採用に賛成したが、四人の経済学者のうち三人はこれに反対した。残る一人であるジュネーヴ大学教授であった経済学者ダメト(Dameth)は、ワルラスの数理経済学を正しいとは思わないが、しかしかような思想を発展せしめ講義せしめてみるのは、学問の進歩のために有益であろうといって、ワルラスの採用に賛成した。その結果、ワルラスはローザンヌ大学の教授に任命せられ、同年十二月十六日開講した。この時から、一八九二年にパレートが彼の講座を継ぐまで、ワルラスは数理経済学の建設に全努力を傾倒した。その間、一八七三年にまず「
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