をこれらの人々の間によく調和せしめ、正義の要求を満足せしめるであろう。悪い形態であれば、ある人の使命をある他の人々のそれに従属せしめ、不正義を生ぜしめるであろう。いかなる形態が良いものであってかつ正当なのであるか。いかなる形態の専有が、道徳的人格の要求に合うものとして理性によって推薦せられるものであるか。ここに所有権の問題がある。所有権は公正で合理的な専有であり、合法的な専有である。専有は純粋にして単純な事実である。所有権は合法的事実であり、権利である。事実と権利との間には、道徳論の余地がある。ここに本質的な点があるのであって、これを誤解してはならない。専有の自然的状態を明らかにし、あらゆる所と時において社会の人々の間に社会的富の分配が行われている種々な形態を枚挙してみたところで、それは何ものでもない。これらの形態を、道徳的人格の事実から出てくる正義の観点から、また平等と不平等の観点から批評し、それらがいかなる点に常に欠陥があったかを指摘し、唯一の良い形態を示すこそ、すべてである。
 三八 社会的富と、社会を作っている人とが現れて以来、社会の人々の間における社会的富の分配の問題は論議されてきた。それは常に正しい、そしてその上に分配を維持しなければならない基礎を問題としてきた。考え出されたすべてのシステムのうちで最も有名なのは、古代の最大の哲学者プラトーンとアリストートをチャンピオンとする共産主義と個人主義である。だが共産主義といい、個人主義といい、それらは何を意味するか。共産主義者はいう、「財は共同に専有せられねばならぬ。自然は財をすべての人に与えた。単に現に生存している人にのみならず、将来生存するであろう人々にも与えたのである。これを個々の人々の間に分つのは、現存の社会と後世の社会の財産を分割することである。それは、この分割後に生れる人々をして、神が準備してくれた資源を利用出来ないようにすることである。これらの人々の目的の追求とその使命の実現を妨げることである。」これに対し個人主義者は答える。「財は個人によって専有せられねばならぬ。自然は人々を、各々の徳につき、技倆《ぎりょう》につき、不平等に作った。勤勉な者、巧妙な者、倹約な者の労働の成果、貯蓄の成果を共同の所有としようと強いるのは、これらの人々の手からこれらを奪って、懶惰《らんだ》な者、巧妙でない者、浪費者のた
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