であろう。同様に職業が分化している場合にも、製造工業家が多過ぎて、他方百姓が少な過ぎるようなことがあってはならない。
 次に、分業が行われない場合と同じく、分業が行われる場合にも、社会における人々の間に行われる社会的富の分配が、公平でなければならぬ。経済的秩序が乱れていてはならぬように、道徳的秩序が乱れていてはならない。もし我々の各々が、自ら消費する一切の物を自ら生産し、自ら生産する物しか消費しないとすれば、生産が消費の必要を目的として規制せられるのみならず、消費もまたその生産の大きさによって決定せられるであろう。ところで職業の分化があったからとて、ある者が僅少な生産をなしながら、多量の消費をなし、ある他の者が多くの多くの生産をなしながら、わずかの消費しかなし得ないようであってはならない。
 かくてこれら二つの問題の重要さも了解せられ、またこれらの問題に与えられた種々なる解答の意味も了解せられ得よう。同業組合、職工組合、親方の制度は、特に生産の釣合の条件を充すことを目的としているのは明らかである。商工業自由の制度すなわち普通にレッセ・フェール、レッセ・パッセの制度と呼ばれるものは、釣合の条件と、富を豊富ならしめる条件とをよく調和しようとする主張をもっている。この制度に先行した奴隷制度、農奴の制度は、社会のある階級をある他の階級の利益のために労働せしめたという不便を明らかにもっていた。現在見る如き所有権及び租税の制度は、人間による人間の搾取を完全に廃止したといわれる。私共は後にそれを検しよう。
 三四 今はただ二つの問題の存在を認め、次にそれらの目的を確定した後、それらの性質を精確にするという一つの事をなすに止める。さてコックランとその派の経済学者がいかにいおうと、社会的富の生産問題にはもちろん、その分配問題にも、自然科学の問題の性質を与えることはまずもって不可能である。人の意志は、社会的な生産の事実に対しても、分配の事実に対しても、自由に働く。ただ分配の場合には、人の意志は正義を考慮して働き、生産の場合には利益を考慮して働く。実際技術的産業の事実と私が右に定義したような経済的生産の事実との間には、性質の相異はない。二つの事実は相互に関係をもっていて、一方は他方を補完する。二つは共に人間的事実であって自然的事実ではない。かつ二つは共に産業的事実であって道徳的事実ではな
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