源八栗
沖野岩三郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)藤六《とうろく》さんは、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)Gempachi《ゲンパチ》−|Kuri《クリ》
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(例)げんぱち[#「げんぱち」に傍点]といふ、
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一
もうりい博士は、みなとの汽船会社から、こまりきつたかほをして、かへつて来ました。それは、午後一時に、出るはずの汽船が、四時にのびたからです。
もうりい博士は今晩の八時から、次の町でお話をする、やくそくをしてあるのです。だから、四時のおふねにのつては、十時すぎにしか、次の町へつくことが出来ないのです。
ふねにのらないとすれば、三十きろのみちを、あるかなければなりません。しかも、そのみちといふのは、けはしい、けはしい山みちです。
やくそくを、だいじに思ふ博士は、そのけはしい、山坂をこえて、次の町へ、あるいて行くことに、決心しました。
博士は、自てん車をもつてゐました。で、それにのつて行きましたが、わづかばかり行きますと、もう、みちがけはしくなつて、自てん車に、のることも出来ません。そこで、自てん車を、おしながら、坂をのぼりました。
みちは、ますます、けはしくなりました。そのけはしいみちの、りやうがはには、一かかへもあるやうな、大きな杉や、ひのきが、しげつてゐます。しかも、それが、どこまで、つづいてゐるか、知れないのです。
博士は、少しくおそろしくなりました。えだとえだとが、しげり合つて、とんねるのやうに、うすぐらくなつてゐる、坂みちを、いきをきらせながら、のぼつてゐますと、二十めえとるばかり、前の方に、どうも、人間らしい、黒いかげが見えます。
「人だ人だ。人があるいてゐる。」
さびしい山みちですから、博士は、人かげを見て、うれしかつたのです。で、いそいで、坂をのぼつて行きました。
まもなく、博士は、その人におひつきました。そして、うしろから、「今日は。」と、こゑをかけますと、だまつて、うしろをふり向いたのは、色の黒い、目の玉の、ぎよろりと光る、とても、人相のわるい、大きな男でした。
「今日は。」と、いつて、男はぢろりと、博士の方を、ふり向きました。手には、太いぼうちぎれを、にぎつてゐます。
男のかほを見た時、博士はすぐ、「これは、どろばうだな。」と思ひました。けれども、今さら、どうすることも、できませんから、「ごめんなさい。」と、いつて、男の前を、とほりぬけて、さつさと、あるきました。
博士は、うしろをふりむかないで、ずんずん、あるきました。もうあとから、よびとめられるか、もうこゑを、かけられるかと、思ひましたが、男は何とも言ひません。
少しく安心した博士は、十分ばかり、あるいたあとで、うしろをふりむいてみますと、男はつゑにすがつて、とぼとぼと、くるしさうに、あるいて来ます。
博士は、その時はじめて、その男が、びやう人であることを、知りまして、ほつと安心しました。
「ああ、よかつた。どろばうで、なくてよかつた。」
博士は、ひとりごとを言ひながら、また自てん車をおして、坂をのぼりました。
それから一時間ほどあとでした。たうげに、のぼりついた博士は、坂の方を見かへりながら、
「たしかに、びやう人だつた。かはいさうな、びやうにんだつた。それに、わたしは、あの人を、どろばうだと思つて、おそろしく思ひました。ひよつとすると、あれは、神さまが、あんな、すがたにばけて、わたしを、おためしに、なつたのかも知れない。本たうに、わたしは、わるいことをしました。もう一ど、ひきかへして、手をひつぱつてあげようか知ら……いや、わたしは、今晩の八時までに、どうしても、次の町まで、行かなければなりません。しかし、あの人は気のどくだ。こんな、けはしい坂を、あのくるしさうな、あるきぶりで、どうして、のぼれるか知ら。」と、つぶやいてゐました。けれども、時計を見ますと、もう、ぐづぐづしては、ゐられませんから、博士はまた、自てん車をおして、坂を下りました。
二三十分ほどあるきますと、向ふから、一人の魚屋さんがきました。平べつたいかごに、いわしだの、さばだのといふ、ひものを二三十、入れたのを、かついでゐます。
博士は、立ちどまつて、「魚屋さん。」と、こゑをかけました。見知らぬ人から、よび止められた魚屋さんは、びつくりしました。そして、だまつて博士のかほを、ぢろぢろ、ながめてゐました。
博士は、ぽけつとから、五十銭ぎんくわを一枚、とり出して、魚屋さんにわたしながら、
「魚屋さん、すみませんが、わたしのあとへ、一人のびやう人が、来ますから、此の五十銭を上げて下さい。わたし、少しいそぎますから……さやうなら。」と
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