くなつて笑ひました。
 けれども、晩になつて、お蒲団の中に入つてゐますと、先生の声が聞えます。生徒が見えて来ます。そして生徒の中の愚助は、せつせと勉強してゐます。
 翌る朝、和尚様が復習《おさらひ》をしますと、愚助はすらすらと、みんな答へができます。
 和尚様は考へてゐましたが、
「愚助、おまへの頭は一日|後《おく》れの頭だよ。昨日習つた事を今日覚えるんだ。他の子供は昨日習つた事を昨日覚えて、今日は忘れてゐるんだ。所が、おまへは昨日習つた事を今日覚えて、いつまでも忘れないんだ。おまへは決して馬鹿でも何でもない。成長したなち、きつと、えらい人間になるぞ。」と、言ひました。けれども愚助は、
「おれの頭は写真頭らしい。昼間習つた事を、其の晩現像して、翌る朝焼きつけるのではないか知ら。」といふやうな事を考へてゐました。
 それから、毎晩毎晩愚助は、お蒲団の中に入るのが楽みになりました。

 お寺は軒が傾いて、柱が朽《く》ちてゐます。和尚様は村の人達《ひとたち》に、お寺を改築するやうにと、何度も何度も、お話いたしましたが、村の人達は、お金のいる事は御免だと言つて、和尚様の言ふ事を聞入れませんでした。そこで、和尚様はお寺の書院の床の間に懸《かか》つてゐる、大きな掛軸を外して、それを京都へ売りに行きました。和尚様は其の掛軸を売つたお金で、お寺を改築しようと思つたらしい。
 ところが、和尚様は京都へ行つたまま、待つても待つても帰つて来ません。村の人達は心配して、京都まで和尚様を尋ねに行きましたが、京都は広い広い町ですから、和尚様はどこに居らつしやるか、さつぱりわかりません。

 村の人達《ひとたち》は、もう和尚様は、京都の町で電車か自動車かに轢《ひ》かれて、死んでしまつたものだと思ひました。
「死んだ和尚様は帰つて来ないだらうが、せめて、あの大きな掛軸だけは取返したいものだ。」
 村の人達は、時時そんな事を申しました。けれども其の掛軸は、どこの誰《たれ》がもつてゐるか知れないのです。
 さうしてゐる所へ、一人の画家《ゑかき》さんが参りました。この画家さんは妙な画家で、何一つ自分で考へ出しては描《か》けないのです。その代り、猫《ねこ》を描けとか虎《とら》を描けとか、こちらから命令すれば、実に立派なものを描きます。
 村の人達は相談しました。
「あの画家さんに頼んで、和尚様が、どこかへ持つて行つた掛軸を、描いて貰《もら》はうではないか。」
「それはいい。では描いてもらひませう。」
 そこで、画家さんに相談しますと、画家さんは、
「承知いたしました。どんな画でしたか、仰しやつて下さい。其の通りに描きます。」と、申しました。
 さて、さう言はれてみますと、此《こ》の村中に、其の掛軸の絵を、はつきり覚えてゐる人は一人だつてありません。
「妙な人間が、円いものの向ふに立つてゐたつけ。」
「何人居たつけね。」
「六七人だつたらう。」
「いや、五人だらう。」
 誰《だれ》一人、はつきり覚えてゐません。そこで村の人達は愚助の所へ来て、
「愚助さん、あなたは、あの書院に掛つてゐた大きな掛軸の絵を覚えてゐますか。覚えてゐますなら、画家さんに話してあげて下さい。」と、頼みました。
 愚助は眼を閉ぢて考へました。何とか、かんとか、和尚様が詳しく教へてくれた事だけは知つてゐますが、みんな忘れてしまつてゐるのです。けれども愚助は、
「宜《よろ》しい、其の画家さんを、ここへよこして下さい。きつと考へ出して、元の通りの絵を描いて貰ひます。」と、申しました。
「愚助さん、大丈夫ですか。」と、村の人達は念を押してききました。すると愚助は、
「大丈夫です。僕《ぼく》の頭は、一日後れの写真頭ですから。」と、申しました。

 画家《ゑかき》さんが参りました。そして問ひました。
「愚助さん、どんな絵を描くのですか。」
「明日《あした》の朝まで待つて下さい。今晩見て置きますから。」
 愚助は答へました。そして其の晩蒲団の中で、眼を閉ぢて考へ出してみた通り、翌朝画家さんに話しました。
「掛物の真中に、大きな壺《つぼ》があるんですよ。壺の正面には、こんな風に白い雲の飛んでゐる絵があるんです。」
 愚助は指尖《ゆびさき》で、雲の恰好《かつかう》を教へて置いて学校へ行きました。そして一日何にも覚えないで帰つて来ますと、画家さんは大きな紙に、立派な壺の絵を描いてありました。飛んでゐる雲も、愚助の言つた通りの雲です。
「愚助さん、この壺の側《そば》に何があるのですか。」と、画家さんはききました。
「待つて下さい、今晩見て置きます。」と、愚助は申しました。画家さんは、愚助が画手本でも内証で見るのか知らと思ひました。
 翌《あく》る朝になると、愚助は、
「画家さん、壺の右の端にね、孔子《こうし》様が立つて
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