其の筈だ。よく晴れた日には海を隔てたサンフランシスコからでも、バークレーの緑の丘を背景に、くっきりと白く見える程の高塔である。オークランドからバークレーに行く者が北に北にと進むにつれて、時々刻々に此の高塔の姿が大きくなって自分に面して来るのを誰でも気づくであろう。だから此のカムパニールは、満州の喇嘛《ラマ》塔のように迷路の標塔でもある。
セイサア女史は校門の落成は見たらしいが、此のカムパニールの竣功を見ないで此世を去った。大学当局者達の遺憾の念いは一通りでなかったと見え、夫人の追悼会場に於て博士エドワード・ビー・クラップの演説に、
[#ここから1字下げ]
我がカリフォルニヤの到る所に、此のカムパニールの姿を眼に刻みつけ、その美しい鐘の音に胸を高鳴らせた人々が、やがて多く現われることであろう。間もなく吾々の校庭にはそれが雲とそそり立つであろう。その冲天《ちゅうてん》の姿こそ、若きカリフォルニヤのシンボルである。これを無用の長物と呟かしめる事は当事者の恥である。
美しき門と高き塔とは世々に其の美と美の価値を人の心に悟らしめるであろう。その存続は此の大学と倶に永久であろう。しかも大学は文化の連鎖に切断の生じない限り人類社会に破滅の来るべき天変地異の生じない限り絶滅しないものである。
[#ここで字下げ終わり]
と、あるによっても明らかである。
斯くて、此の三百七呎の高塔から美しい音楽の音の流れ初めたのは千九百十七年十一月二日の正午だったのである。爾来《じらい》十四年間正午と夕刻の二回、時を違えずグレゴリーチャント以後今日まで世界の名曲の一部がチャイムとなって虚空遙かに流れわたるのである。
此の塔が竣成して間もなく、専門家が長い間の研究と実験を経て完成されたチャイムの鐘が十二個イギリスから搬送されて来たのである。最大が四千一百十八斤で最小が三百四十九斤である。そして、今このチャイムをバークレーの町々に、日毎夜毎鳴り響かせている男は、全体どんな男であろう。
一二回あの塔に昇った事のある人だったら、校内を歩いていると、後から元気な声で『ハロー!』と呼びかけられる程彼は物覚えがよい。声はやさしいが雲突くような大男だ。でっくり肥えて、顔は日に焼けて焦茶色である。爛々たる眼光は常に何物かを見つめている習性の持主だという事が誰にも知られる。どうしても年百年中荒潮の中に浪と闘う老船長である。年は五十四五でもあろう。
私は今日も此の老船長のような男に三百七呎の上空まで伴れて行ってもらった。彼は此の塔の訪問者の案内役であり、エレベーターのコンダクターであり、正午と六時のチャイムのミュージシャンでもあるのだ。エレベーターが停ると彼は、柔和な声で説明する。
『此の塔は高さ三百七呎、此の観望台は二百尺の位置にある。バークレー全市とサンフランシスコ湾と金門海峽が見える……向うの霞の中に見えるのがタマルパイの嶺、その左に連るのがゴールデンゲートの山々、その手前がエンゼルスアイランド、左に見えるがオークランド市……』
それから眼下の校庭を指ざしながら、あれが図書館、これが自然科学館、それが物理学教室……と、さも自分の財産ででもあるかの如く愛撫の情を含みながら云う。
説明が終った時、つめたい鉄柵を撫でながら私は言った。
『あなたは年がら年中、このブリッジに立って果しもない大海を眺め、潮風に吹かれ、雲の変化を見ているんですね、丁度船長のように。』
『全くその通りだ。』と相恰くずして喜んだカムパニールキーパーは続けて言った。『夏でも冬でも、晴天にも曇天にも、風が吹こうが雪が降ろうが、私はいつも此の通りに立っている。或時は寒流から押しよせて来る濃霧のために、眼前|咫尺《しせき》を弁じない事もあるが、今日のように、あの美しいタマルパイの姿をくっきり見せてくれる事もある。なるほど私は船長だ。パイロットだ!』
『ところが此の船はティッピングもローリングもしなくていいですね。』
『揺れないかわりに、動きもしない、大地のような安定な船だ。』
『随分多勢の人が毎日此の船に乗りましょうね?』
『ははは乗客はどんな日でもありますね、しかも世界中から集って来る。偉い人も偉くない人もある。或人は一目見ると直ぐ、ハハア此の人は偉いぞとわかる。だが時としては皆目見当のつかない人もある。とにかく人間というものは此の世の中で一番面白いものだ。』
話しているうちに、何とも得体の知れないものが欄干の間から見えた。
『あれは?』
『コロシアムだ、大きな丼鉢のようだがあの容量《キャパシチイ》は八万人だ。あの中央の緑の美しいのをごらんなさい。秋になるとあすこでフットボールの競技があるのだ。』
船長は時計を出してみて『あ、時間だ!』
エレベーターはまた私たちを運んで下界に降した。降りながら彼は
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
沖野 岩三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング