にでも堪え得る忍耐力があります。すべての日本人は勇敢で、そして親切です。日本人は立派な品性と力量とをもっています……私達はミラーに死なれてからアメリカ人に随分いじめられました。ミラーの遺稿から上った原稿料など、みんなまき上げられました……』
 夫人の言葉は少々乱脈になって来た。のべつ幕なしに話している処へ五十近い、しかも、まだミスらしい婦人が出て来た。ミラー翁の娘さんらしい。
 挨拶をすると、直ぐ手の筋を見てやろうといった。で、セエキスピアが気味悪そうに右の手を出すと、彼女はいった。
『私はあなたの未来の事はちっとも申しません。あなたの過去のすべてが、私の判断でわかりますから、それを語って批判します。あなたはその批判から御自分の将来を御判断なさい。あなたは由緒ある家に生まれ、生活の苦闘を続け、今は成功している。感情的で他人の世話をする。その世話はことごとく裏切られる。それでも信念は一々それを気持よく整理した。文学を好む。それが半ば熟達の道を歩んでいる。あなたは要するに善人で……』
『異存なし!』といいたい所である。そこを出て山の方へ行ってみたかったが、近頃の山火事に追われたカヨテ(狼)やライオンが出るといううわさをきいていたので、行くことは見合せた。ここらで獣の餌食になっては私は兎も角若いセエキスピアのために泣く人があるので。
 ハイツの森を出た者は、誰でも後を振り向いて考えるであろう。
『こんな所に、たったひとりいたというだけで、ウオーキン・ミラーという人は詩人でもあったろうがまた奇人でもあったろう?』
 それから一週間の後であった。私はひとりで、どこへ行くというあてどもなく、町をぶらついていると、向うから夫婦者らしい二人が歩いて来る。男は日本人で女はアメリカ人らしい。男は黒の結びネクタイで、竹久夢二氏を十年ほど老人にしたような風采である……と思っていると、
『日本人教会はどこですか。』と其の男はやさしい声できいた。
『あすこです。』
 指をあげて教えてあげた私は、別に気にもとめなかったが、あとできけば、その男こそウオーキン・ミラー未亡人が口を極めてほめたたえた詩人の菅野《かんの》[#「菅野」は底本では「管野」]衣川氏だったのだ。つれていた婦人は彫刻家で菅野[#「菅野」は底本では「管野」]氏のミセスだときいた。其のミセスの事は佐々木指月君から度々聞かされていたのである。それだったら、会って話してみたかったと思ったが、どうせ会った所で詩人でなく美術家でない、散文的な私のことだ、先方に迷惑をかけるだけと思って、訪問にも出かけなかった。
      *
 カリフォルニヤ大学のカムパスの中央に聳え立つ高塔《カンパニール》は花崗石を三百七呎の高さに積み上げたルネッサンス式の建築である。ヴェニスの聖マークの高塔よりも僅か二十一尺の低さで、大学のカムパニールとしては、凡そ全世界にこれほど高いものはないと云う話である。
 此の高塔がカリフォルニヤ大学に建てられたについては、こんな話がある。
 大学の後援者の一人にセイン・ケー・セーサーという婦人があった。彼女の考では人間教育の骨子は、健全に文学を鑑賞させることと正当に歴史を会得させることにあるというのである。そこで彼女は此の加州大学の当局者に対して、二人の教授の俸給を永久に支払い得るだけのプロフェッサーシップファンドの寄付を申し込んだ。そして一人の教授は必ず古典文学を担当し、他の一人は史学を教授することにしてほしいと云った。大学ではその申込を受入れることとした。
 彼女は満足した。けれども彼女の寄付は一万幾千の大学生の中で、単に文学と歴史を学ぶもののみに恩沢を与えるにとどまる。それでは完全なる好意と云えない。そこで考えついたのが、此のカムパニールと、大きな校門とであった。高塔は文学の象徴であり、校門は歴史の標号である。毎日毎日三百七|呎《フィート》の高塔から美しい鐘の音が音楽となって鳴り響く。夜も昼も無数の老若男女が流れ来り流れ去る此の校門は、正に歴史のペエジペエジに現われ消え去る人々の姿なのである。
 ヨネ野口の師事したウオーキン・ミラーという詩人で名高いバークレーの街を、ずんずん山手に登った所にテレグラフという大通りがある。オークランド方面から此の大学に来るには最も便利な電車通りだ。その北の終点が加州大学であり、そこの入口にある校門が、謂う所のセイサアゲエトで、花崗石の巨大な門柱が中心になって、その外に稍小さい石柱が二本ずつ並んで副門を作っている。柱上には青銅のブリッジが渡されて、セイサアゲエトという文字が浮彫りにされ、礎石には『千九百十五年』という文字が刻まれている。
 此の門を入ってアスファルトの歩道を右に折れ更に左に曲ると、カムパニールの下に出る。近づけば近づく程高く見える。それも
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