あせればあせる程こけるのである。仕方がないので片々で十分に踏みかためては一足のぼり、踏みかためては一足登り、漸くの思でなだれを攀ぢた。笠が途中に引掛つて居た。道の下まで來ると木の根がある。木の根へ手を掛けたが、片手に笠があるのでまたずる/\として踏み答へがない。それからしつかと笠を冠つた。兩手で縋つてやつとのことで道路へ上つた。なだれの上は棧橋であつたのだ。安心すると共に驚きと恐れとが一時に襲ひ來つた樣に動悸がはげしくて何とも形容の出來ない一種の厭な心持がした。夜の山道などは以來決してすべきものでないとつく/″\感じたのである。此の時人が若しも予を見たならばどんな容貌をして居つたであらうか。
 これからは非常の注意を以て然かも急いだ。然し予はどうして此の時半里足らずの三依へ引つ返す心にならないで一圖に宿へ歸らうとしたことであつたか自分にも分らないのである。一つは慌てゝ居つたからでもあるだらうか。
 時々溪流の樣な響が梢を傳ひて段々近づくと思ふとあたりは白雲が一杯になつて、汗ばんで居た身體はぞつとする程寒くなる。白雲が去つて仕舞ふと素の平靜にかへる。頂上まで來るとこれからが鹽原に面した坂路である。こゝで落ちたらもう助かる見込はないのである。稻妻形の屈折した曲り目になると、四つに偃つて手探りに道を求める。恐ろしいといふよりも厭ふ心持がしてたまらぬのであつた。幸に失策もなくて麓の人足が休んで居たあたりへ辿りついた時には予の嬉しさは譬へやうがなかつた。それからは足のつゞく限りに急いだ。宿へついたのは九時過ぎであつた。予は腰を卸した儘峠の話をするとみんなが予の傍に來て無事を喜ぶと共に非常に驚いたのであつた。まあちやんが予の草鞋をといて呉れた。草鞋掛までが底の拔けて居たには自分ながら驚かざるを得なかつた。
 翌日眼を醒すと宿の者は山へ出て仕舞つてまあちやんが一人茶釜の下を焚いて居た。湯槽の中で氣がついて見ると右の腰骨の所に少しく痛みを覺えて小さな傷が出來て居る。なだれへ落ちた時の形見である。今朝から踏むたびに足のうらが痛むと思つて居たら栗の刺が夥しく立つて居る。夜道に栗のいがに乘つたやうにも思つたのであつたが、こんなことゝまでは思つて居らなかつた。予はまあちやんに針を借りて自ら左の足の刺を掘りとつた。まあちやんは右の足の刺をとつて呉れた。
 其後心切なまあちやんはどうなつたであらう、聞くの便りもない。予が眼に浮ぶまあちやんは何時でも十七の時の姿である。[#地から1字上げ](明治三十九年三月三十一日發行、馬醉木 第三卷第三號所載)



底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2000年5月10日作成
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