してある。峠の麓には二十人ばかりの人足が休んで居つた。土を削つた跡や置いた跡を見ると道普請をして居るのである。峠は頗る急峻で、羊膓たる坂路は丁度襖の模樣の稻妻形に曲折して居る。絶壁には所々に棧橋が架けてあつて孰れも皆新規であるのを見ると麓の人足等が造つたのであらう。溪は深い。こゝから落ちたら命は無いだらうと思ひながら登つて行つた。小荷駄馬が揃つてとぼ/\と降りて來る。此峠は會津地方からの唯一の通路であつて、一切の貨物がこのやうに僅に馬背に依つて運搬されるのである。馬は足もとばかりに注意して漸く歩いて居るのであるから、如何にも悠長である。それだから山國の馬は眼からさきに死ぬと世俗にはいふて居る。
 峠を下ると三依といふ小村へ出る。立派な街道がある。日光方面から會津への本道だ相である。然しながらしんとして淋しい。右折して進んで行く。駒を曳き連れた博勞が一人やつて來た。素晴しい大きな男で、前へ草鞋を一足ぶらさげて居る。茱萸の大きな枝を持つて毟つてはしやぶり、毟つてはしやぶりつゝ行くのである。二三町行くと少し平垣な所があつて一帶に茱萸の樹が簇生して居る。枝が淺ましいまで折られてある。予も小さな枝を探つてはしやぶつた。遙に上の方で女の笑聲が聞えた。山は草深くつて女の姿は見えない。大方は草刈であつたらう。茱萸の木から暫くで道は五十里《いかり》川の岸へ出る。河の流は道路からでは餘程低くて一つの大きな瀑布を形つて居る。之が不動瀧である。瀧の上の巖の頂には矮小なひねびた松がかぶりついて居る。根は僅かな[#「な」は底本では「は」]間隙を求めて喰ひ入つて居る。どこから水分が吸收されるかと思ふ位だ。不動瀧から山王峠は間もないとのことである。
 もとへかへつて三依の村まで來た。此間に逢つたのは曩の博勞唯一人のみである。三依は二三十戸の小村であるが、材木と葺草とに不自由の無い爲めか家の構造は頗る大きく且つ岩疊で、戸袋や欄間には意外な裝飾が施してあるが、之に對して障子が煤けて破れたり座敷が埃だらけの樣子だから可笑しい。河を渡つて芹澤といふ所へ辿つた。更に淋しい小村で田が少しばかりある。田の傍には幾筋かの小さな流が通つて、箱仕掛の小さな水車が煢然として立つて居る。水が箱へ一杯になると水の重みで箱が傾いて中軸が廻轉する。他の箱が素の箱の位置へ來る。此の緩漫な運動が繰り返されて米でも麥でも搗かれるのである。山が崩壞して湖水を成したといふのは此の芹澤の山中に在りと傳へられたのである。或家で湖水の出來た所はどこだと聞いたが更に要領を得ない。幾人に聞いても分らない。これは聞き方が惡いのかと思つたから、更に山の崩れた所は無いかと聞いた。すると或者があゝあれかと無造作にいつた。さうしてなんでそんなものを尋ねるのかといふ顏付であとから來た。山は近かつた。如何にもあれかといふだけに過ぎない。山脚の一小部分が崩れて小さな溪流が一時塞がれたまゝである。水は土砂を潜つて今頻りに流れつゝあるのである。予は新聞紙の虚報にいたく失望せざるを得なかつた。山深く來たことの無意味であつたのが殘念で堪らなかつた。さう思ふと一刻も早く宿へ歸つて仕舞ひたいのである。
 峠の麓まで來た時には日はいくらもなかつた。古ぼけた一軒の家へ寄つて婆さんにねだつたら、手作りの草鞋を賣つて呉れた。栗は無いかと聞いたら、自分の食料に熬つたのがあるといつて一升桝へ山程盛つて來た。いくらだといふと一錢も置いてくがいゝといふのである。予は其小部分を外套の隱しへ押し込んで、峠は夜になるだらうが何も出ないだらうなと自分ながら弱い音を吐いた。何が出るものかいと婆さんが笑つた。栗を噬りながらせつせと歩いた。皮の儘で熬つた栗は堅いこと夥しい。あの婆さんがこんな石のやうなものをかぢるのかと驚いた位である。峠の登りを半分も來ると日は全く暮れた。松明一本も用意しなかつたのは考へると實に危險なのである。だん/\に樹木の茂りへかゝると闇さが加はつて來た。足もとに青く白く光るものがある。薄氣味惡く手に採つて見るとぬら/\としたものである。能く見るとそれは茸であつた。樹木は更に深くなる。然し三依に面した坂路は晝間見た所では曲折もなく勾[#「勾」は底本では「※[#「曷−日」、310−10]」]配も緩やかであつたから格別氣にもせずにせつせと歩いた。然しそれが無謀にも全く心あてに歩くに過ぎなかつたのである。樹蔭の一際暗い所であつたが、暗いと思つた瞬間に右の足を踏み外して身躰が轉々として數囘廻轉した。幸にして途中で留まつた。漸くのことで心を落ち付けて見ると、小石程の巖の碎けが夥しい中に予の體があつた。雨のために巖が崩れるとその碎けが溪に向つて瀧のやうになだれることがある。予の體の留つたのは其なだれの中間であるに相違ない。身を動かせばずる/\と下へこける。
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