ぬことである。酌婦に落ちぶれさせることも忍びられない。さうかといつて自分の家へ置いたのでは其の日/\に困つて畢ふ。どうかあなたの家に暫く預つて下女代にでも使つておいて貰ひたい。針仕事は一人前のことは差支がないからといふのであつた。私の母も気の毒に思つたし、僅に三人の家族のうちでそれも私の父は大概他出して居るので家に在るものは母と私と二人のみで、傭人が寂しい夜をやつと賑はして居たに過ぎない不自由だらけな生活であつたのだから、針仕事の出来るといふのを幸に一時預つてやらうといふことにも成つたのである。私も其時どういふものか私の家に女が一人殖えるといふことが決して悪い心持はしなかつた。それで私は其次の日の夕方それがどんな女か見たいやうな気もしたので行つたこともない教師の寓居へ用をかこつけて行つて見た。ひどい穢い住居であつたがそれでも厭な心持も起さずに帰つて来た。学校は私の家からでは大分隔つて居たので教師の寓居も遠かつた。二三日して母といふのが其女を連れて来た。女の弟といふ小さな子も一緒に手を引かれて来た。母といふのは教師とは大分年齢が違ふやうに見えた。さうして教師の無頓着なのと違つて仲々一癖あり相な容貌であつた。女は其夜から私の家の人になつた。私の情史の第一頁が此れから染められるのである。女は既に男といふものゝ間に築かれてある一重の垣が除かれた身であつたのである。女はおいよさんといつた。二十一だとかいつたが少し大柄であつたので二つ三つは隠して居るかと思はれた。おいよさんにはくつきりと色の白い所が第一の長所であつた。夜になると能く吊しランプの側で髪を束ねた。以前熱病に罹つたことがあつて其後髪の毛が恢復しないのだといつて夜束ねた髪も朝になると耳のあたりへ短い毛が少しこけて居るのであつた。おいよさんには何処といつて格別にいゝ所はなかつたが人の心を惹くのは其涼し相な目であつた。然しぢろりと横を見た時には意地の張つた女であるといふことを思はしめた。それは窮乏な家庭に成長した丈に野卑なさもしい処もありはあつたが、それは極めて冷静に見ていつたことで母も私も同情して居たのであるからそんな欠点を見付けよう抔といふ念慮は其時ちつとも持たなかつたのである。教師の子だけに手紙を書くことが女としては達者であつたのも母の心に投じたのであつた。おいよさんは毎日針仕事と炊事の手伝とをして居た。只時々その大柄なのには似合はず加減が悪いといつては臥せることがあつた。教師はおいよさんが来てから遠い処を能くおとづれた。好きな酒も非常に遠慮して時には遁げるやうにして飲まずに帰ることもあつた。さうしておいよさんが平生から虚弱であつたことをいつて母へ哀訴するやうに頼んで行くのであつた。教師の腰の低い割合においよさんにはツンとした所があつた。我儘に育てられた女であつたのだ。尤も此は私がおいよさんと別れてから母も私も思つたことである。私の病気のために心配した母はおいよさんにも深く同情したのである。障子の蔭で針仕事をしながら
「おいよさんもお弱くて困りますね。それに何だか思はしくないんですつてお父さんも大抵の苦労ぢやないんでせうね。あなたも我慢することは出来ないんですかね」
 私の母がいつたことがあつた。
「どうしても私厭なんでございますから」
 暫くたつてからおいよさんの声でかういつた。
「それでもあちらでは戻したいといふんぢやありませんか」
「どうでございますか」
「此間あちらから人が来た相でしたね」
「そんなことを父が申して居りましたが」
「籍はまだ送つてないんだつてましたね」
「まだこちらにございますから私さへ戻らなければそれまでなんでございます」
「そんなことを聞いては何ですがそれには訳もあるんでせうがね」
「私どうしても厭なんでございます」
 私は襖を隔てゝかういふことを聞いたことがある。私は耳を欹てた。おいよさんは戸籍は送つてないといつたけれど夫のある女である。夫のある女といふものは決して善い感じを与へるものではないのである。然し私に近くおいよさんの居ることは私に少しも不快の感を起させない。おいよさんが私の家に少し落ち付いた頃私は其涼し相な目を見てふと何処かで見たことがありはしないかと思つた。追求の念が絶えず私をそゝつておいよさんの顔を見させたのである。おいよさんは此を何と思つたか、私がおいよさんを見る度においよさんも私を見返すのであつた。

     三

 其頃からでは余程前のことであつた。或遠方の姻戚に葬式があつたことがあつた。夏といつてもまだ暑いといふ頃ではなかつたが、竹の筒には百合の花が供へられてあつた。藪の草の中などにはまだ山百合が膨れ出しもしなかつた位であつたから、草花の好な私は其白い花が何といふ百合であるかと見て居たのであつた。其土地は私の村とは違つて樹立
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