青く匂ふ。私が最初に思ひ出した時には女の姿はそれ程に明瞭ではなかつた。それがだん/\記憶を反復して居るうちに女の姿がはつきりとかう極つて畢つたのである。私は兎に角こんなことであつたから性情が何等の抑制もなく発達して行つたならば曠野のうちに彷徨ふやうな索莫たるものではなかつたであらう。私は病気の為めに断然廃学せねば成らぬやうになつた。其時私はまだ廿にもならなかつた。私は復た櫟林に没却して此の静かな村の空気を吸はねばならぬことになつた。全く孤独の境涯に移つた。日さへ明ければ田畑に出る百姓は私の相手ではなかつた。心身共に疲労した私と何時までゝも相対して居てくれるものは樹木の外にはないのである。それからといふものは厭だと思つて居た櫟の木もだん/\に好きになつた。私は健康の恢復しかゝるまで数年間徒然として過した。其間女といふ念慮の往来したことはあるが自分ながら明かにどうといつて述べて見る程のこともない。私に妻帯を勧める人もあつたが其噺を運ぶのには私の心は余りに沈んで居た。私が周囲から品行方正な人間として待遇されて居たのも当然である。私が斯ういふ状態を持続して居たのは病気といふ肉体の欠陥と私を挑発する機会が一度も与へられなかつたからとでなければならぬ。私の村に相手になつてくれるものがないといふのは私と百姓との間には生活状態から自然著しい隔てを生じて疏通し難い点が多い為めである。百姓の子でも麦の臭に満ちた畑の中に働いて居る時や、熊手を持つて櫟林の間を落葉掻に行く処をちらりと見た時や其姿が有繋に目を惹くことがないではないが、それは只一瞥した感じに過ぎないので、暫くも私の心を動かすには足らぬのである。私の生涯の春もこんなであつたけれど赭い枯葉を振ひ落したやうに時期が来つて忽ちに変化した。さうして人一倍の陋劣な行為を敢てしたのである。それは私の家に一人の女が来たからであつた。
二
私の村の学校の教師に溝口といふ老人があつた。彼はみじめな残骸をそつちへこつちへ逐ひやられて到頭辺鄙な私の村へ逐ひつめられたのであつた。自ら士族だといつて居たがさういふ俤もあつた。撃剣をしたしるしだといふて皺だらけの手の甲を見せることがあつた。目もどうかするとぎろりと光ることもあつたが生活の圧迫からいつとはなしにさもしい心が出たと見えて酒でもやるとへこ/\と頭を下るのであつた。遅くまで子があつたと見えて夫婦共に七人の家族だといふことを聞いて居た。老朽の教師の俸給で七人の糊口は容易なことでないのだから到底好な酒までには及ばないのである。然し性来の子煩悩と見えて能く生徒の世話をするといふので父兄とは懇意にして居た。そつちこつちと訪ねては酒にありついて居た。さうして其帰りには茄子でも芋でも其季節のものを貰つて提げて行く。自分の小さな風呂敷包を首へ括つて両脇へ大きな南瓜を抱へて行くこともあつた。よろ/\として行く処を見ると遊戯に耽つて居る村の子供が騒ぎながら先生の後に跟いて部落の境まで行く。風呂敷が解けて茄子でも芋でも転げ出すと教師は慌てゝ拾つては袂へ入れる。生徒はわあと先を争うてそれを拾ふ。先生は更に慌てる。生徒は各手柄でもしたやうにそれを先生へ返すのである。斯ういふ教師が其頃まだ世間に存在して居たといふのは不審に思はれるやうであるが、それを馘つて畢ふことが忽ち其一族に悲惨な目を見せなければならないので情実といふものが幸に余命を繋がしめて居たのである。庭に散つた木の葉がそつちこつちと掃き寄せられるやうに自己の運命の終局までには幾多の学校を移つて歩かねばならぬ。然しかういふ教師の役に立たぬ割合には父兄の間には気受がいゝ。それといふのは子煩悩で能く生徒の世話をするのと応対が砕けて居て他の教師のやうなツンとした所がないからである。百姓の目には袴を穿いてる教師の地位は立派なものである。だからさういふ人間から親しい言葉を挂けられるといふことが彼等には満足なのである。私は此の教師を憫むべきものと思つて居た。私の家は父母と私と只三人のみの家族であつたから此の教師の私の家を訪問すべき機会は少なかつた。それでも時々来ることは来た。如何にも控目にして居る容子を見ると私の母は不取敢酒を出さぬ訳には行かなかつた。其帰る時には又野菜の一包が彼の手に在つたのである。或時彼はまた非常に恐縮した容子で私の家へ来た。酒が其元気を恢復した時に私の母へ嘆願があるといひ出した。それはかうであつた。彼の長女で、彼の妻の郷里の知合の人が媒酌で其近村へ娵に行つたのがあつた。それが一年ばかりになるのだがどうしても亭主が厭だといふので遁げて来て畢つた。それが遂近頃のことである。仮令下女奉公をしても酌婦に売られても亭主の側へもどるのが厭だといつて聴かぬ。厭だといふものを無理に逐ひ帰して間違があつたら取り返しのつか
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