暫く物案じをして居たがすぐに其所を始末して母へ暇を告げて出て行つた。おいよさんは其日は帰らなかつた。次の日も帰らない。おいよさんの針仕事は依然としておいよさんが束ねた儘そつくりと柱の側に置かれてある。私の心は何んだか形容し難い寂しさを感じた。此の時限り私はおいよさんに別れたのではない。それにも拘らず私はおいよさんに対して前後に此の時程果敢ない思をしたことがない。どうしても心が騒いでならないのであつた。おいよさんは三日目の夕方私が跣足で秋草へ水をやつて居る所へ風呂敷包を抱へてもどつて来た。
「まだ極りがつかないもんですから人が来たんだつていひました。私はいつだつておなじなんですから駄目ですよ」
 かういつて
「それでもね私が置いて来た衣物は二枚ばかりとゞきました。私がこゝへ来て居ることは来た人も知らないんですからね。どこへ行つて居るんだつて頻りに聞いた相ですよ」
 おいよさんは淋しく笑つた。どうもはき/\として居ない。おいよさんは又何かいはうとしたが傭人が畑から帰つて来たので私のもとを去つた。私はおいよさんを見てひどく不安に感じた。それでも其夜ランプの下で自分の袷地を裁つて威勢よく箆をつけて居るのを見て少し心がゆつたりしたやうであつた。おいよさんの家からはそれつきり何ともいつて来なかつた。おいよさんは依然として私に便利な人であつた。私は外出する度窃においよさんの用を達してやつた。私は自分から何か欲しいものはないかと聞いてやるのであつた。赤い綿フランネルだのメリンスの半襟だの私はおいよさんの為めに買つて来た。おいよさんのはき/\した態度は初心な私の眼を掩うたのである。
 或晩私は便所へ立つた。便所の戸を開けようとした時私はおいよさんの部屋の障子が一杯に明るくなつて居るのに気がついた。便所に近い六畳の間がおいよさんの部屋にあてられてあつたのである。夜はもう何時位であつたか知れなかつたが秋雨が止まず降り注いで居る。廂を掩うて居る桐の木がもう落葉して居るので其落葉へ雨はばしや/\と打ちつける。廂へもじと/\と打ちつける。さうかと思ふと草鞋で歩いて来る足音のやうにしと/\と遠い響が聞えて来る。※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]が滅入るやうに鳴いて居る。さういふ錯雑した響の中に夜はしんとして更けつゝあるのを感ぜしめた。便所を出る時にもおいよさんの部屋は障子が一杯に明るくなつ[#底本では「っ」]た儘である。暫く立つて見たが障子の内は只静かである。おいよさんはどうして居るのであらうか、或はうつかり眠つて畢つたのではなからうか、眠つたとすると枕元へ引きつけたランプは危険である。それで私は障子に近づいて外からがた/\と軽く障子を動かして見た。起きて居るならば何とか驚いて声を立てる筈であるのに一向返辞もない。私は有繋に心が咎めながら到頭障子を開けて見た。おいよさんは熟睡して居る。こちらを向いてさうして蒲団の外へ延した右の手から雑誌が披いた儘こけて居た。大縞の浴衣を着たしどけない姿で肩が挂蒲団から脱け出して居た。枕元の二分心のランプは心が一杯に出て油煙が微かにホヤの上に立つて居る。さうして室内はほのかに臭くなつて居た。おいよさんは深夜に障子を開けて私がはひつて来たとは知らない。さうして軽く体に波を打たせながら息づく外に微動もしない。ランプの光はおいよさんの無心な白い顔を見守つて居る。私は立つたまゝ堅くなつたやうになつて見おろした。おいよさんの口もとの筋がどうしたのか少しぴく/\と動いた。私はつとしやがんでランプの心を引つ込めた。裾がおいよさんの手に触れた。おいよさんはぎよつと目を開いた。さうして驚いた機会にすつと一時に息を吸ひ込んで、まあと一声出して打消すやうに手を挙げた。おいよさんは手を引きながらランプのホヤを倒した。おいよさんは慌てゝ身を起しかけた。其時はもう私が火を吹つ消したのでおいよさんの姿は只目前に見えなくなつてしまつた。それと同時に生暖い風がふわりと私の肌に感じた。

     四

 翌朝目が醒めて見ると秋の日が障子の腰にかつと光を投げ掛けて居た。私は暫くもぢ/\して天井の木理を見つめて居た。以前からどうかすると酷く体がゝつかりして居て唯ぼうつとして時間を過すのが屡であつた。此は私が病気の為であつた。小勢であるだけ私の家はひつそりして居るのであるが今朝はそれが殊更静に感ぜられた。障子の外では庭で傭人が陸稲を扱きはじめたと見えてぼり/\と懶相な音が聞える。又目を瞑つて居ると襖がそつと開いたやうである。ふと見るとおいよさんが私の部屋の外へ塵払と箒とを挂けに来たのである。おいよさんが箒を取りに来た時は私はまだ熟睡して居たらしかつた。襖をそつと締める時おいよさんは冠つて居る白い手拭の下から私を見て嫣然とした。おいよさんが嫣然とする時には屹
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