を掃除した。
「旦那、こちらはゆるつとして居ますからこちらのお座敷になすつたらどうでござんす。此からもう海水浴のお客さんがそろ/\参りますから、今のうちいゝ座敷をおとんなすつた方がようござんすぜ」
 と番頭は注意してくれた。然し私はそこへ移る気にはなれなかつた。私は女に対して非常に遠慮して居た。座敷にも私は遠慮がない訳には行かなかつた。ひつそりとして居るので隣の座敷は却てまだ女が居るやうな心持がしてならぬ。私は其夜もひどく寂しい隣の座敷を控へてつく/″\と思案した。お婆さんは女の身は片がついたといつて悦んで居た。恐らくもう心配がなくなつたのであらう。女がはき/\として見えたのも其為めではあるまいか。それにしてもおいよさんの方は母がどう運びをつけて居るのであらうか少しも分らないのである。隣の座敷の女に逢つてから私はひどく心が弱くなつておいよさんに対する心配も増して来た。私が遥々此の港まで身を避けて居るのに女は私に苦悶させようとして待つて居たものゝやうであつた。私には他の理由は少しも分らないのに只片がついたといつて悦んで見せて行つて畢つた。私はどこかへ打棄つてしまはれたやうな心持になつた。私は怏々として居た。一日間を隔てゝ母から手紙が届いた。私は心もとなく封を切つた。手紙にはかうあつた。あのことは窃に極りをつけた。帰つて来ても誰に義理をいふ必要もない。只知らぬ顔をして居ればいゝのである。帰りたければ帰るがいゝ、逗留して居たければいつまでゝも居るがいゝといふのであつた。私は此の時つく/″\母の慈愛といふことを感じた。私はすぐに宿を立つことに決心した。其日のうちに上りの列車に乗つたのである。隣の座敷にはまだあとの客は這入らなかつた。
 其後おいよさんはどうなつたか知らぬ。私が帰つた時母は私に何も知らないで居れといつた。私は母に強ひて聞く勇気もなかつた。それでも一年許りの間はおいよさんから何とか六かしいことでもいつて来やしないかと懸念がないではなかつた。私はずつと後になつてふと村の内外に当時おいよさんとの噂が立つて居たことを聞いた。実際あつたことでなければ其噂はいつか消滅して畢ふから後になれば分るといふことを人が一般にいつて居る。私の陋劣な手段は私の噂を葬つてしまつた。さうして今では村の内外に私を疑つて居るものがなくなつた。私はおいよさんとの間の行為を罪悪だと知つて居る。然し
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