まして」
女はいつものやうに低い声である。
「脳貧血でも起したんぢやないか」
私は独でかう呟いた。
「胸が少しいけませんでしたが、もう落付きました」
「どうです少し背中でも叩きませうか」
「いゝえもう決して」
女はかういつてそつと首を擡げた。どうしたものか女の眼は涙でうるんで居る。女が固辞するので私は只立つて見て居た。私は女が更にひどく悶えて居ても実際は女の体へ手を触れることが出来ないで只はら/\して居たかも知れぬ。私は此の女にひどく恐怖心を持つて居たからである。女は起ちあがつた。単衣の砂を叩いて前を合せた。さうしてほつれた髪を両手で掻き上げた。雨はいつか晴れて居た。雨の粒ははら/\と乾いた砂の上にまぶれて畢つた位に過ぎなかつた。あたりにはみやこ草の花が砂にひつゝいて黄色にさいて居る。こぼれ松葉がみやこ草にもぱらりと散つて居る。女は立つて蝙蝠傘を杖づいて歩き出した。私も無言の儘女の先に立つて歩いた。私は漸く小径を求めて松原から街道へ出た。小径の雑草が衣物の裾にさはる。月見草が私等二人を見て居るやうにところ/″\雑草の中から首を擡げて居た。私は車夫が空車を曳いて来るのがあつたら女を乗せて帰さうと思つたが街道の途中に車はなかつた。少し行くうちに幸藁屋の小さな茶店があつたので私はそこへ女を休ませた。私は茶店の婆さんから清心丹を貰つて女へやつた。暫くたつ内に女の顔色も恢復して来た。私は婆さんへ少しばかりの心づけをして茶店を立つた。女は有繋に帯の間から銭入を出したのであつたが私は無理にもどさせた。やつとのことで勿来の停車場へついた。上りの列車を待つ間私は態と女と離れて居た。女も凝然と腰挂けた儘いつまでも俯伏して居た。列車の窓から見ると日は青草の茂つた丘のあなたに隠れて其光を沖一杯に投げて居る。海の水は深い碧である。沖の小さい白帆が目に眩きばかり夕日の光を反射して居る。列車に乗つたかと思つたらもう関本の停車場である。私は人力車を呼んで女を乗せた。此の時女はもう余程恢復して居た。私は女の後から徒歩で急いだ。女の車が田甫を遥かに越えて丘の間に隠れるまで私は速い歩調を止めなかつた。
八
次の日女は一日座敷を出なかつた。尤も朝の内私の座敷の外へ来て昨日の義理を述べた。白地の絣の上に帯はきりゝと締めて居た。大抵の女はかういふ場合には笑顔を作つて挨拶をするのであるが、
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