であつた。或日隣の座敷では何かさら/\と巻紙でも巻いて居るやうな音が微かに聞えた。やがてばちりと筆を擱く音がしてそれからかたりと硯箱の蓋を落す音がした。ひつそりとした隣の座敷からは茶碗へ湯を汲む音さへはつきりと私の耳に響くのであつた。私の懐疑心は隣の座敷に対して神経を鋭敏にして居たのであつた。やがて女は一封の手紙らしいものを持つて、衣物で胸を掩ひながら私の座敷の前を通つて二階をおりて行つた。二三日たつてから私は少しの雨間を見て散歩に出た。復た此の間の畑へ行つて見た。青い煙も立つて居らなければ百姓の女も見えぬ。燃やして棄てた麦束は此の間の儘ぐつしよりと湿つて居る。僅かの間に白い野茨の花もなくなつた。懶げな海と相接して空がどんよりと低く垂れて居る。私は寂しさに堪へなかつた。宿へもどつたのは正午少し過ぎであつた。隣の座敷には草履が二足脱いであつてひそ/\と噺をして居るのが聞えた。私が自分の座敷の障子を開けてはひつた時噺は少し途切れたやうであつた。軈て又以前よりもひそ/\と語りはじめたやうである。女中が私へ昼餐を持つて来た時、隣の障子が開いて女は一人のお婆さんと階子段をおりて行つた。お婆さんは私の座敷をちらりと見て会釈して行つた。田舎の人としては品のいゝ怜悧相な人であつた。髪は油が乗つて居たが半分程は白いやうであつた。私はあのお婆さんは今日はじめて来た客かと女中に聞いて見た。女中はもう二三度来たことがあるので、隣の女もあのお婆さんが連れて来たのである。女はもう三週間ばかり隣の座敷に居るのである。さうしてお婆さんが来るといつでも此所の主人とお婆さんとで頻りに相談をして居るのだといつた。まだ海水浴といふ時節でもないから客も少ない此の港の宿に保養であるとしてもあの女は不思議である。私は箸をとりながら尚女中に聞いて見た。唯手持無沙汰にして聞くよりもかうして膳に向いて聞くのは私には張合があつた。
「私もよくは知りませんがね、あの方はお気の毒なんですと」
 女中は丸盆を膝に立てゝかういつた。
「お前知つてるかいそれを」
 私は聞かないわけには行かなかつた。
「本当はね、私知らないんですがね、さういふこといつてますんですよ」
「誰がいつてるんだい」
「此所の且那さんが他人でないんですつて、旦那さんがねあのお婆さんと噺しちや困つたなんていつていますよ、それだけですよ」
 私は土瓶から注いだ
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