なつたら一刻も我慢が仕切れなくなつてすぐ鮎川まで歸つたのである。然し其時は渡船の時間が切れてしまつたから非常の時に打つべき筈の鐘を鳴らして山雉《やまどり》の渡しの船を呼んだのだといつた。さうして彼は又仙臺へ歸つたら少し身躰の養生をしなくちやならねえと獨言をいつた。牡鹿半島は一望晴朗としてテーブルへ掛けた絨布の如く平らかで且つ青い海の上に低く長く連つて其先端にとがつた金華山が聳えて見える。其聳えた下のあたりに鮎川の港はあるのであらうがもう遙かに隔つてわからぬ。大工の棟梁らしい男が其牡鹿半島を一々弟子共に指し示して居る。あれが石の卷だといふ所に白帆が二つ三つ見える。そこには日和山の杉であるべき筈の木立が小さく然かも鬱然として居る。余は二日もかゝつて歩いた土地を安坐して一目に見るのであるからそれが非常に嬉しかつた。忽ちあれ/\と人々が騷ぐ。汽船の右舷に近く一區域をなして平靜な波に更に小波を立てゝ水の動いて居る所がある。洋服の男はあれは魚の群だといつた。時々尾が出たり頭が出たりする。少女はあれ/\と我を忘れて延びあがるやうにして見入る。年増の女はあぶないというて制する。汽船の進行するに連れてそつちにもこつちにも此の魚族の群が目につく。甲板には乘客が一杯であるだけ魚族の群に對する騷ぎが大きい。少女は其度毎に我を忘れて見入る。汽船は日覆の布の上から煙を遙か後の波の上に吐き落しながらずん/\と進行する。松島の外側へさしかゝつた。奇巖亂礁の島々に接近して行く。其時波は稍動いて船体が幾らか搖れて來た。沖遠く吹きおくる凉しい風に日覆の布がばさ/\とふれる。今まできよろ/\と目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて騷いで居た少女は急にうつ伏しに成つてしまつた。見ると此の少女の帶の結び目も漸く拳大さに過ぎないのであつた。代《よ》が崎《さき》を過ぎて塩竈の杉の稍が遙かに見えて籬が島が舳にあらはれた時には船体の動搖は止んだ。さうして平らな蒼い水を蹴つて行く汽船の舷に近く白い泡が碎けて消える。年増の女はうつ伏しに成つて居る少女を見てお前はまあどうしたのだといつた。さうして私は船が大好きだ。あのずつと白い泡の立つ所はラムネのやうで胸がすきるといつた。余は此の奇拔の言に意外な思をした。籬が島のあなたからは塩竈を出た小舟が白帆を揚げて走つて行く。白帆を揚げた小舟は又それと行き違ひに塩竈をさし
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