過ぎないのである。高平公使が居るので浴客がめつきり殖ゑたというて居る土地である。それは公使の顏が見たさに人々が聚るのだといふ。此が十分に此地方を説明して居る。此渡波から八厘で渡す狹い渡しへかゝる。其時丁度麁朶を滿載した船が白帆を張つて狹い渡し一杯になり相にして、海からはひつて來た。渡しを越すとそこは牡鹿半島の地である。街道も渡波で竭きてこれからは僅に小徑を辿つて行く。汀について小山の裾を廻つて坂になる。又脚が痛み出したので小さな丘の上で休んだ。入江が一眸のうちに聚る。此が萬石の浦である。入江は硝子の乳器のやうな形に先へ開いて居る。入口に近い所に幾つかの中洲がある。中洲のめぐりには薪が山の如くに積んであつて煙が幾筋となく立ち昇つて居る。秋の日は其煙の中に傾きつゝ見える。中洲は鹽田である。方言ヂンバであるが此邊の人は鼻へかけてそれをヅンバと云つて居る。それでさつきの船は此の鹽田へ薪を運んで來たのだといふことがわかつた。入江は低い山々を以て圍まれて居る。遙かに水を隔て對岸に青く聳えて居るのが牧山でそれから峰が左右へ長く連つて居る。牧山の下にはこんもりとした森があつて其森は幽かな三四の民家と共に水に浸つたやうに見えて居る。そこに白帆が一つぢつとして止まつて居る。近くを見ると自分の居る足もとには汀について茂つた草村に野菊のやうな星月夜の花が一杯に白くさき亂れて居る。汀つゞきには二坪三坪位な青田が形ばかりに作つてある。其青田の畦には星月夜の花の草村が茂つて居る。余は手拭で括つた白甜瓜を解いて刄物がないから膝がしらへ打ちつけて割つた。對岸を見ると白帆が一つ殖ゑて居た。そこに泊つて居た船が何時の間にか帆綱を引いたものと見える。其うちに後の白帆が先になつて汀傳ひに二つ動きはじめたやうである。白帆の影は長く水に引いてこちらの岸近くまで屆かうとして瀲※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さゞなみ》に碎かれて居る。余は瓜の甘い汁を啜りながら白帆を見る。汁は口のうちで十分に啜つて種を足もとの草村へ吐き出した。種は散亂して田の中に落ちた。瓜の皮は水へ投げた。皮は水に落ちて白く小さく沈んだ。一體に幽邃な平和な此の水は山の姿と相俟つてどうしても、山上の湖水である。鹽田のある所を見ると濃厚な鹽分を含有して居るのであらうが汀に近く星月夜の草村が茂つて居たり僅ながら青田が作つてあつたりするとこ
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