も思ひましたが、さうでもありません。併しその物音は別段に近づいて來るのでもなく、又去らうとするのでもない樣でした。庄次は少し恐ろしく成つて蒲團を被りました。さうして又そつと耳を澄ましました。すると何となくかさ/\といふやうな音が聞えるのであります。暫くたつてそれが止んだと思ふ頃庄次は目を開いて見ました。少し月の光が疎《うと》く成つたと思ふやうでも、まだ瓜畑には一杯の明るさであります。蚊帳越しではありますが彼の目には白い瓜がやつぱり目に映るのでありました。木戸の外は垣根のやうな蜀黍が遮つて何物も見えないのであります。で間もなく夜が明けました。
 翌る朝になつて庄次は畑を隈なく見ましたが瓜は一つも盜まれてはありません。次の夜も又番をしましたが、さういふことがありました。庄次には合點が行きません。彼れは人からよく能くいひ觸らされてるやうに貉か狸の惡戲ではないかとまで思ひました。然し誰にもいひはしませんでした。
 然るところ其次の夜は元のやうに爺さんが泊りました。木戸口のこそ/\といふ音は爺さんの耳にも響きました。耳敏い爺さんは凝然《じつ》と枕を欹《そばた》てました。これまで數次かうして惡戲好な村落の若者の爲にぢらされた例《ためし》がありましたからか、爺さんはもう非常な怒氣を含みました。窃と蚊帳を捲りながら飛び出しました。棍棒を手にすることは咄嗟の間にも忘れませんでした。然しながら爺さんの驚駭《おどろき》はどんなでしたらう。其處には慥に人が立つて居ましたけれども其人は遁げたり隱れたりしようとは致しません。唯蜀黍の傍に身をよせて居たまでゞあります。固より盜人ではありません。では何人であつたらう。それは爺さんが思ひもよらぬ地主の娘のお杉さんでありました。彼れが絶體の服從を甘んじてゐる地主の娘でありました。
 朴訥で罪のないそして自分の權利を守る爲に恐ろしい頑強な力を有つて居る爺さんは、蚊帳から飛び出すと共に、非常に劇しい惡罵の聲を曲者に浴せ掛けたのであります。そして盜賊としてお杉さんを手荒く捉へたのであります。更に爺さんの恐怖《おそれ》がどれ程であつたでせう。其地主に向つては殆んど絶對の服從をすら甘んずるばかりに物堅い爺さんの頭は馴致《なら》されて居るのであります。彼は只管お杉さんに詫びるの外はありませんでした。さうして彼は夜の中にお杉さんを其門に送りました。
 彼の正直な狹い一徹の心は昏んでしまひました。彼は夜の明けるのが待遠でたまりません。飛んだ申譯のないことをして呉れたなアといふのが思案に餘る爺さんの口から庄次へ浴びせた強く鋭い小言でありました。
 庄次にはそれが何の事であるのかサツパリ解りませんでした。庄次は常にない爺さんの顏色を見てこれは容易なことではないと合點しました。がしかし彼は何にも言はず默つて居ました。さうして自分の務に赴きました。
 爺さんは轉げ込むやうに地主の戸口を跨ぎました。私もこんな年齡《とし》に成りながら、遂そんな心配もあるまいと、迂濶に油斷をした許に取り返しのつかないあなたの娘さんへ傷をつけまして、懲《こら》せと申されゝば野郎は手でも足でも打ち折りますが、どうか此から娘さんの方もお氣をつけなすつてと彼は呼吸も喘々《せか/\》として冷たい汗を流しました。此だけいふのに幾度堅唾を嚥んだか知れません。彼は庄次がお杉さんを誘惑したとばかり思ひ込んで畢つたのでした。お杉さんは昨夜も庄次が居ると思つて瓜畑へ忍んだのだと一も二もなくさう極めて畢つたのであります。
 爺さんは只一筋にさうおもひ詰めたのだから、その心には庄次の口から一度どんな姿にも事實を吐かせようとする餘裕さへ起らなかつたのであります。彼は只地主から非常な譴責《しかり》を受けたいのでありました。怪しからぬ事だ、不都合千萬な伜だ、貴樣の仕つけがよろしくないからかういふ事を仕出かしたのだと散々に叱られてさうして自分自身の噪ぐ心を落付けさせたいのでありました。これが爺さんの心の願ひでした。
 爺さんの詫言を聞いた地主は有繋にそんなことがあつたかと一度は駭いたのでありましたが、どうか世間に襤褸を出したくないといふ考が第一に其心に湧きました。そこで地主はそつとお杉を呼んで聞いて見ましたが、お杉は俯向いた儘萎れて何にもいひませんでした。爺さんからきつぱりとした噺を聞された地主の心にはもう直ぐに「判斷」がつきました。さうしていつそのこと、そんな事に成つたならお杉は庄次へ嫁に遣らうといふことに極めたのであります。
 庄次は見處の有る人間であるといふのが地主の心を動かしたのであります。併しながら今の儘では行つた娘も可哀想だから、どうにか食つて通れる丈の田畑も其身に附けてやらうといふのであります。尤も其の事は其日の内に極つたのではありませんが、段々と家内相談があつて自然とさう成り
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