聞《き》いた。
「さうでござんすね」勘次《かんじ》はぐつたりと俛首《うなだ》れて言辭《ことば》の尻《しり》が聞《き》きとれぬ程《ほど》であつた。深《ふか》い憂《うれひ》が顏面《かほ》の皺《しわ》に強《つよ》く刻《きざ》んだ。
「わしも此《こ》れ……」と彼《かれ》は微《かす》かにいつたのみで沈默《ちんもく》を續《つゞ》けた。彼《かれ》は内儀《かみ》さんの前《まへ》にどうしても述《のべ》なければならないことに其《その》心《こゝろ》が惑亂《わくらん》した。彼《かれ》はぽうつとして目《め》が昏《くら》まうとした。遠《とほ》く喚《よ》ぶやうで然《しか》も近《ちか》い聲《こゑ》の爲《ため》に彼《かれ》が我《われ》に返《かへ》つた時《とき》
「それぢやお前《まへ》、まあ此《この》錢《ぜに》を藏《しま》つたらどうだね」と内儀《かみ》さんが促《うなが》したのであつた。衷心《ちうしん》から困《こま》つたやうな彼《かれ》に向《むか》つて内儀《かみ》さんはもう追求《つゐきう》する力《ちから》を有《もた》なかつた。
「誠《まこと》にどうもお内儀《かみ》さん」彼《かれ》は財布《さいふ》を帶《おび》から解《と》いて出《だ》した時《とき》酷《ひど》く減《へ》つて畢《しま》つたやうに感《かん》じて、其《そ》の財布《さいふ》を外《そと》から一寸《ちよつと》見《み》て首《くび》を傾《かたぶ》けた。彼《かれ》は又《また》財布《さいふ》の底《そこ》の錢《ぜに》を攫《つか》み出《だ》して見《み》た。燒趾《やけあと》の灰《はひ》から出《で》て青銅《せいどう》のやうに變《かは》つた銅貨《どうくわ》はぽつ/\と燒《や》けた皮《かは》を殘《のこ》して鮮《あざや》かな地質《ぢしつ》が剥《む》けて居《ゐ》た。彼《かれ》はそれを目《め》に近《ちか》づけて暫《しばら》く凝然《ぢつ》と見入《みい》つた。彼《かれ》は心《こゝろ》づいた時《とき》俄《にはか》に怖《おそ》れたやうに内儀《かみ》さんを顧《ふりかへ》つてじやらりと其《そ》の錢《ぜに》を財布《さいふ》の底《そこ》へ落《おと》した。(完)
底本:「長塚節名作選 一」春陽堂書店
1987(昭和62)年8月20日発行
底本の親本:「土」春陽堂
1912(明治45)年5月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※『管《かま》あこたあ有《あ》んめえな」勘次《かんじ》はおつたが』は底本では『管《かま》あこたあ有《あ》んめえな勘次《かんじ》はおつ」たが』となっていますが、底本に付されていた正誤表によって改めました。
※ルビ抜けは底本通りにしました。
※底本には数多くの誤植が疑われる箇所や、新字・旧字の混在がありますが、編集者の方針「初版本を底本とし、長塚家所蔵の新聞切り抜きにある修訂本文をもって校合した。」を尊重し、ファイル作成にあたっては、上記編集部の正誤表による修正以外は、完全に底本通りとしました。また校異の類も一切付けませんでした。
なお、仮名遣いや新字・旧字の混在(「わらぢ」と「わらじ」、「※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」]」と「姉」等)以外で誤植を疑った箇所は以下の通りです。1912(明治45)年5月15日春陽堂発行の「土」(参照したのは1974(昭和49)年1月1日近代文学館発行の復刻本)では「【】」の中の矢印の後ろの形になっていました。
○p13−12自分《じふん》の【じふん→じぶん】 ○p16−14遺《や》つた。【遺→遣】 ○p17−8一燻《いとく》べ【いとく→ひとく】 ○p17−13頻《ほゝ》【頻→頬】 ○p24−7灸《あぶ》つて【灸→炙】 ○p27−15遙《はろか》に【はろか→はるか】 ○p27−15手拭《てねぐひ》【てねぐひ→てぬぐひ】 ○p28−1村《なら》【なら→むら】 ○p31−14おうつ【→おつう】 ○p35−11擔《かつ》いて【いて→いで】 ○p38−11地《ち》べた【ち→ぢ】 ○p44−4喰《そ》の【喰→其】 ○p44−9釘附《くきづけ》【くき→くぎ】 ○p49−10喚《よ》んた【た→だ】 ○p50−12取《と》り取《あへ》ず【取《あへ》→敢《あへ》】 ○p57−1死《し》んちまあなんて【ち→ぢ】 ○p60−13音信《おどづれ》【ど→と】 ○p62−7ばんやりとして【ば→ぼ】 ○p81−5一|且《たん》【且→旦】 ○p95−15冬懇《ふゆばり》【懇→墾】 ○p102−13峙《そばた》てゝ【そばた→そばだ】 ○p106−15逡巡《ぐつ/\》【ぐつ→ぐづ】 ○p119−8上《のば》つたのである。【ば→ぼ】 ○p123−5一|方《ぼう》には【ばう→ぱう】 ○p125−1暮《あつ》い【暮→暑】 ○p13
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