ん間合《まにやあ》ねえこたありあんすめえね」
「さうだよ、老人《としより》なんていふものは少《すこ》しの加減《かげん》なんだから、まあ心配《しんぱい》させないやうにした方《はう》が好《い》いよ、さういつちや何《なん》だが後《あと》幾《いく》らも生《い》きるんぢやなしねえ」
「へえさうでがすよ、昨日等《きのふら》ツからちつと柔《やつけ》え言辭《ことば》掛《か》けつとうるしがつて居《ゐ》んですから、それからわし野郎《やらう》げ貰《もら》つて來《き》た火傷《やけど》の藥《くすり》も貼《は》つてやつたんでさ、藥《くすり》足《た》んなく成《な》つちやつたから醫者樣《いしやさま》さ行《い》つて來《く》べと思《おも》つたつけが、今日《けふ》は午後《ひるすぎ》で居《ゐ》めえと思《おも》ふから明日《あした》にすべと思《おも》つて止《や》めたのせ、明日《あした》行《い》つたら水飴《みづあめ》でも買《か》つて來《き》てやれなんておつうも云《い》ふもんでがすからね」
「火傷《やけど》したなんて聞《き》いたつけがそれでも家《うち》へ連《つ》れて來《き》てかね」
「へえ」勘次《かんじ》は其《そ》の佛曉《あけがた》のことをどうしてか内儀《かみ》さんがまだ知《し》らぬらしいのでほつと息《いき》をついたが又《また》自分《じぶん》から恥《は》ぢて、簡單《かんたん》に瞹昧《あいまい》に斯《か》ういつた。
「お内儀《かみ》さん、こうちつとでもよくねえ錢《ぜに》へえつちや末始終《すゑしじう》はどうしてもえゝこたありあんすめえね」勘次《かんじ》は更《さら》にまた酷《ひど》く懸念《けねん》らしい容子《ようす》をして突然《とつぜん》に聞《き》いた。
「さうさねえ」内儀《かみ》さんは勘次《かんじ》の心持《こゝろもち》が明瞭《はつきり》とは分《わか》らないので氣《き》の乘《の》らぬやうにいつた。
「そんだがお内儀《かみ》さんさうえ錢《ぜに》は自分《じぶん》のげ役《やく》に立《た》てせえしなけりやどうしても違《ちげ》えあんすべえね」勘次《かんじ》は内儀《かみ》さんに分《わか》つても分《わか》らなくても、そんなことを考《かんが》へる餘裕《よゆう》がなかつた。彼《かれ》は只《たゞ》自分《じぶん》の心配《しんぱい》だけを底《そこ》から蓋《ふた》から打《ぶ》ち傾《ま》けて畢《しま》はねば堪《た》へられなかつたのである。
「さうだが、それもどういふ筋《すぢ》の錢《ぜに》だか分《わか》らないがそりや使《つか》つちやいかないんだらうさね」
「そんぢやお内儀《かみ》さん他人《ひと》の錢《ぜに》なくしたのなんぞ發見《めつ》けても知《し》らねえ容子《ふり》なんぞして、後《あと》で遣《や》んな盜《と》つた見《み》てえで變《をかし》な時《とき》や、何《なん》でかで落《おつ》ことした丈《だけ》の物《もの》でもやればそれでも違《ちげ》えあんすべね」勘次《かんじ》は少《すこ》し自分《じぶん》のいふことの内容《ないよう》を打《う》ち明《あ》けるやうにいつた。
「默《だま》つて居《ゐ》ればそれつ切《きり》なんだが」彼《かれ》は獨《ひとり》喉《のど》の底《そこ》でいつた。
「そりやそんなことしないで發見《みつ》けた物《もの》なら其儘《そつくり》返《かへ》すのが本當《ほんたう》だよ」内儀《かみ》さんは聲《こゑ》は低《ひく》かつたがきつぱりいつた。勘次《かんじ》の惑《まど》うた心《こゝろ》の底《そこ》にはそれがびりゝと強《つよ》く響《ひゞ》いた。
「そんぢやお内儀《かみ》さんそれ返《けえ》して又《また》其《そ》の外《ほか》にも何《なん》とかしたら冥利《みやうり》の惡《わ》りいやうなことも有《あ》りあんすめえな」彼《かれ》は情《なさけ》なげな目《め》で内儀《かみ》さんをちらりと見《み》ていつた。
「そんなこた仕《し》なくつたつて何《なに》もよかりさうなもんだね」内儀《かみ》さんは勘次《かんじ》の餘《あま》りに懸念《けねん》らしい容子《ようす》に疾《とう》から心《こゝろ》づいたことがあつた。内儀《かみ》さんは暫《しばら》く聞《き》かなかつた彼《かれ》の盜癖《たうへき》に思《おも》ひ至《いた》つた。然《しか》し彼《かれ》が自分《じぶん》から甚《はなは》だしく悔《く》いつゝあるらしいのを心《こゝろ》に確《たしか》めて強《し》ひては追求《つゐきう》しようといふ念慮《ねんりよ》も起《おこ》し得《え》なかつた。勘次《かんじ》は只《たゞ》不便《ふびん》に見《み》えた。内儀《かみ》さんはふと思《おも》ひ出《だ》して少《すこ》しばかりの銀貨《ぎんくわ》を勘次《かんじ》の側《そば》へ竝《なら》べて
「そりやさうと、お前《まへ》も家族《うち》の極《きま》りをつける積《つもり》だつていふんだが、まあどうする積《つもり》なんだね」と靜《しづか》に
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