つぎは更《さら》に卯平《うへい》を顧《かへり》みて
「なあ爺《ぢゝ》、其《そ》の方《はう》がよかつぺ」といひ掛《か》けた。卯平《うへい》は其《そ》の蹙《しが》めるやうな目《め》で微《かす》かに點頭《うなづ》いた。
「おとつゝあ、どうせ茶漬茶碗《ちやづけぢやわん》も要《え》つから茶碗《ちやわん》買《か》つてそれさ水飴《みづあめ》入《せ》えて繩《なは》で縛《しば》つて來《こ》う、さうすつとえゝや」
「さうでも何《なん》でもすびやな」
「それに、明日《あした》行《い》つたら又《また》藥《くすり》貰《もら》つて來《こ》う、爺《ぢい》が手《て》さも貼《は》つてやんなくつちや仕《し》やうねえぞ」
「俺《お》ら云《ゆ》はんねえでも藥《くすり》は氣《きい》ついてたのよ」勘次《かんじ》はおつぎのいふのを迎《むか》へて聞《き》いた。彼《かれ》の三|尺帶《じやくおび》には其《そ》の時《とき》もぎつと括《くゝ》つた塊《かたまり》があつた。其《その》財布《さいふ》の僅《わづか》な蓄《たくは》へは此《この》數日間《すじつかん》にどれ程《ほど》彼《かれ》を救《すく》つたか知《し》れなかつた。彼《かれ》はまだ幾《いく》らかの日用品《にちようひん》を求《もと》める餘力《よりよく》を有《いう》して居《ゐ》た。彼《かれ》は開墾《かいこん》の賃錢《ちんせん》を手《て》にすることが出來《でき》ればといふ望《のぞ》みが十|分《ぶん》にあつた。只《たゞ》彼《かれ》は目下《いま》其《そ》の幾部分《いくぶぶん》でも要求《えうきう》することが、自分《じぶん》の火《ひ》が燒《や》いた其《そ》の主人《しゆじん》の家《うち》に對《たい》して迚《とて》も口《くち》にするだけの勇氣《ゆうき》が起《おこ》されなかつたのである。

         二八

 勘次《かんじ》は午餐過《ひるすぎ》になつて復《ま》た外《そと》に出《で》た。紛糾《こぐら》かつた心《こゝろ》を持《も》つて彼《かれ》は少《すこ》し俛首《うなだ》れつつ歩《ある》いた。暖《あたゝ》かな光《ひかり》は畑《はたけ》の土《つち》の處々《ところ/″\》さらりと乾《かわ》かし始《はじ》めた。殊更《ことさら》がつかりしたやうにしをたれた櫟《くぬぎ》の枯葉《かれは》もからからに成《な》つた。凡《すべ》ての樹木《じゆもく》は勢《いきほひ》づいて居《ゐ》た。村落《むら》の處々《ところ/″\》にはまだ少《すこ》し舌《した》を出《だ》し掛《か》けたやうな白《しろ》い辛夷《こぶし》が、俄《にはか》にぽつと開《ひら》いて蒼《あを》い空《そら》にほか/\と泛《うか》んで竹《たけ》の梢《こずゑ》を拔《ぬ》け出《だ》して居《ゐ》た。只《たゞ》蒿雀《あをじ》は冬《ふゆ》も春《はる》も辨《わきま》へぬやうに、暖《あたゝ》かい日南《ひなた》から隱氣《いんき》な竹《たけ》の林《はやし》を求《もと》めて低《ひく》い小枝《こえだ》を渡《わた》つて下手《へた》な鳴《な》きやうをして、さうして猶且《やつぱり》日南《ひなた》へ出《で》て土《つち》をぴよん/\と跳《は》ねた。凡《すべ》ての心《こゝろ》は暖《あたゝ》かな光《ひかり》の中《なか》に融《と》けて畢《しま》はねばならなかつた。
 勘次《かんじ》は依然《いぜん》として俛首《うなだ》れた儘《まゝ》遂《つひ》に隣《となり》の主人《しゆじん》の門《もん》を潜《くゞ》つた。燒趾《やけあと》は礎《いしずゑ》を止《とゞ》めて清潔《きれい》に掻《か》き拂《はら》はれてあつた。中央《ちうあう》の大《おほ》きかつた建物《たてもの》を失《うしな》つて庭《には》は喬木《けうぼく》に圍《かこ》まれて居《ゐ》る。赭《あか》く燒《や》けた杉《すぎ》の木《き》を控《ひか》へてからりとした庭《には》は、赤土《あかつち》の斷崖《だんがい》の底《そこ》に沈《しづ》んだやうに見《み》える。蒼《あを》い空《そら》を限《かぎ》つて立《た》つた喬木《けうぼく》の梢《こずゑ》が更《さら》に高《たか》く感《かん》ぜられた。勘次《かんじ》は怕《おそ》ろしい異常《いじやう》な感《かん》じに壓《あつ》せられた。隣《となり》の主人《しゆじん》の家族《かぞく》は長屋門《ながやもん》の一|部《ぶ》に疊《たゝみ》を敷《し》いて假《かり》の住居《すまゐ》を形《かたち》づくつて居《ゐ》た。主人夫婦《しゆじんふうふ》は勘次《かんじ》の目《め》からは有繋《さすが》に災厄《さいやく》の後《あと》の亂《みだ》れた容子《ようす》が少《すこ》しも發見《はつけん》されなかつた。主人夫婦《しゆじんふうふ》の曇《くも》らぬ顏《かほ》が只管《ひたすら》恐怖《きようふ》に囚《とら》へられた勘次《かんじ》の首《くび》を擡《もた》げしめた。殊《こと》に内儀《かみ》さんの迎《むか》へて聞《き》く態度《たいど》
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