吉《よきち》は自分《じぶん》の心《こゝろ》に少《すこ》しの隔《へだ》てをも有《いう》して居《を》らぬ卯平《うへい》の前《まへ》に知《し》つてることを矜《ほこ》るやうにいつた。
「汝《われ》こた怒《おこ》んねえのか」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは與吉《よきち》の隱《かく》さぬ言辭《ことば》に少《すこ》し力《りき》んだ勢《いきほ》ひが拔《ぬ》けたやうになつて斯《か》ういつた。
「俺《お》れこた怒《おこ》んねえ、俺《お》ら怒《おこ》つたつ位《くれえ》遁《に》げつちやあから」與吉《よきち》のいふのを聞《き》いて爺《ぢい》さんの憤《いか》りは和《やはら》げられた。卯平《うへい》は蒼《あを》い顏《かほ》をして凝然《ぢつ》と瞑《つぶ》つた目《め》を蹙《しが》めて聞《き》いて居《ゐ》た。圍爐裏《ゐろり》には麁朶《そだ》の一|枝《えだ》も燻《く》べてなかつた。三|人《にん》は暫《しばら》くぽさりとした。
「爺《ぢい》くんねえか」與吉《よきち》は危《あやぶ》むやうにいつた。
「汝《わ》りや何《なに》欲《ほ》しいつちんだ」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは底力《そこぢから》の有《あ》る聲《こゑ》を低《ひく》くしていつた。
「俺《お》ら一錢《ひやく》もねえから」と卯平《うへい》はこそつぱい或《ある》物《もの》が喉《のど》へ支《つか》へたやうにごつくりと唾《つば》を嚥《の》んだ。彼《かれ》の目《め》の皺《しわ》が餘計《よけい》にぎつと緊《しま》つた。
「俺《お》らまあだ、ちつた有《あ》つたんだつけが、煙草入《たぶこれ》と同志《どうし》に燒《や》えつちやつたから」彼《かれ》はぽさりと投《な》げ出《だ》していつた。
「煙草入《たぶこれ》は燒《や》けたつて錢《ぜね》だら灰《へえ》掻掃《かつぱ》けば有《あ》る筈《はず》だ、外《ほか》に盜《と》る奴《や》ざ有《あ》りやすめえし」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんの目《め》は光《ひか》つた。
「なあに分《わか》んねえよ、おつう等《ら》毎日《まいんち》來《き》てゝも其《そ》の噺《はなし》やねえんだから、俺《お》らどうせ癒《なほ》つか何《なん》だか分《わか》りやすめえし、要《え》らねえな」
「なあに、俺《お》れ聞《き》いて見《み》なくつちやなんねえ、出《だ》すも出《だ》さねえも有《あ》るもんか」小柄《こがら》な爺《ぢい》さんは呟《つぶや》いて
「行《え》けはあ、汝《わ》りや大《え》けえ姿《なり》して、呉《く》ろうの何《なん》だのつて」と與吉《よきち》を呶鳴《どな》りつけた。與吉《よきち》は悄々《すご/\》と出《で》て行《い》つた。卯平《うへい》は少《すこ》し目《め》を開《ひら》いて與吉《よきち》の後姿《うしろすがた》を見《み》た。涙《なみだ》が止《と》めどもなく出《で》た。彼《かれ》はそれを拭《ぬぐ》はうともしなかつた。

         二七

 其《そ》の夜《よ》温度《をんど》が著《いちじ》るしく下降《かかう》した。季節《きせつ》は彼岸《ひがん》も過《す》ぎて四|月《ぐわつ》に入《はひ》つて居《ゐ》るのであるが、寒《さむ》さは地《ち》に凝《こ》りついたやうに離《はな》れなかつた。夜半《やはん》に卯平《うへい》はのつそりと起《お》きて圍爐裏《ゐろり》に麁朶《そだ》を燻《く》べた。ちろちろと鐵瓶《てつびん》の尻《しり》から燃《も》えのぼる火《ひ》は周圍《しうゐ》の闇《やみ》に包《つゝ》まれながら窶《やつ》れた卯平《うへい》の顏《かほ》にほの明《あか》るい光《ひかり》を添《そ》へた。彼《かれ》は勢《いきほ》ひない焔《ほのほ》の前《まへ》に目《め》を瞑《つぶ》つた儘《まゝ》只《たゞ》沈鬱《ちんうつ》の状態《じやうたい》を保《たも》つた。彼《かれ》は殆《ほと》んど動《うご》かぬやうにして棄《す》てゝ置《お》けばすつと深《ふか》く沈《しづ》んで畢《しま》つたやうに冷《さ》めて行《ゆ》く火《ひ》へぽちり/\と麁朶《そだ》を足《た》して居《ゐ》た。彼《かれ》は暫《しばら》く自失《じしつ》したやうにして居《ゐ》て麁朶《そだ》の火《ひ》が周圍《しうゐ》の闇《やみ》に壓《お》しつけられようとして僅《わづか》に其《そ》の勢《いきほ》ひを保《たも》つた時《とき》彼《かれ》はすつと立《た》ち上《あが》つた。彼《かれ》の糜爛《びらん》した横頬《よこほゝ》はもう火《ひ》の氓《ほろ》びようとして居《ゐ》る薄明《うすあか》りにぼんやりとした。火《ひ》はげつそりと落《お》ちて彼《かれ》の姿《すがた》が消《き》え入《い》らうとした。彼《かれ》は戸《と》を開《あ》けて踉蹌《よろ》けながら出《で》た。寒《さむ》い風《かぜ》が冷《つめ》たい刄《やいば》を浴《あ》びせた。卯平《うへい》は悚然《ぞつ》とした。
 勘次等《かんじら》三|人《にん》は其《そ》の夜《よ》も
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