他人《ひと》の櫛《くし》なんぞ取《と》つか」勘次《かんじ》は苦《くる》しい息《いき》を吐《つ》くやうにして
「そんだら汝《わ》りや」と齒《は》でぎつと噛《か》み殺《ころ》した樣《やう》な聲《こゑ》でいつた。暫時《しばらく》凝然《ぢつ》と見《み》て居《ゐ》た彼《かれ》はおつぎを蹴《け》つた。おつぎは前《まへ》へのめつた。然《しか》しおつぎは泣《な》かなかつた。「おゝ痛《い》てえまあ」群集《ぐんしふ》の中《なか》から假聲《こわいろ》でいつた。踊《をどり》の列《れつ》は先刻《さつき》から崩《くづ》れて堵《と》の如《ごと》く勘次《かんじ》とおつぎの周圍《まはり》に集《あつ》まつたのである。おつぎは此《この》聲《こゑ》を聞《き》くと共《とも》に亂《みだ》れ掛《か》けた衣物《きもの》の合《あは》せ目《め》を繕《つくろ》うた。
「櫛《くし》とつたな此處《ここ》に居《ゐ》たよう」と此《こ》れも喉《のど》の底《そこ》からかすれて出《で》るやうな聲《こゑ》が群集《ぐんしふ》の中《なか》から發《はつ》せられた。
「持《も》つてたら、やつちめえ」
「厭《や》だよう、おとつゝあに打《ぶ》ん擲《なぐ》られつから、おとつゝあ勘辨《かんべん》してくろよう」と歔欷《すゝりな》くやうな假聲《こわいろ》が更《さら》に聞《きこ》えた。惘然《ばうぜん》として見《み》て居《ゐ》た凡《すべ》てがどよめいた。
「おとつゝあ明《あか》り點《つ》けべえかあ」と群集《ぐんしふ》の後《あと》から呶鳴《どな》ると共《とも》に凡《すべ》てが復《ま》たどつと笑《わら》つた。
 おつぎはむつくり起《お》きてさつさと行《ゆ》き掛《か》けた。
「汝《われ》何處《どこ》さ行《え》くんだ。こうれ」勘次《かんじ》は引《ひ》つ捉《つか》まうとしたがおつぎは身《み》を捩《ねぢ》つてさつさと行《ゆ》く。勘次《かんじ》は慌《あわ》てゝ草履《ざうり》の爪先《つまさき》が蹶《つまづ》きつゝおつぎの後《あと》に跟《つ》いた。
「おつう」彼《かれ》は心《こゝろ》もとなげに喚《よ》んだ。與吉《よきち》はどうした理由《わけ》とも分《わか》らないので先刻《さつき》から只《たゞ》泣《な》いて居《ゐ》た。
 太鼓《たいこ》が止《や》んで踊《をどり》は全《まつた》く亂《みだ》れて畢《しま》つた。それでなくても彼等《かれら》は一しきり踊《をど》れば田圃《たんぼ》を越《こ》えて三々五々《さんさんごゝ》と男《をとこ》は女《をんな》を伴《ともな》うて、畑《はた》の小徑《こみち》から林《はやし》を過《す》ぎて村落《むら》から村落《むら》へと太鼓《たいこ》の音《おと》を尋《たづ》ねて行《ゆ》くのである。
 勘次《かんじ》の後《うしろ》から彼等《かれら》はぞろ/\と跟《つ》いて行《い》つた。或《ある》者《もの》は足速《あしばや》に駈《か》け拔《ぬ》けては
「燒餅《やきもち》燒《や》くとて手《て》を燒《や》いてえ、其《そ》の手《て》でお釋迦《しやか》の團子《だんご》捏《こ》ねたあ」と當《あ》てつけに唄《うた》うてずん/\行《い》つて畢《しま》ふ。後《うしろ》の群集《ぐんしふ》はそれに應《おう》じて指《ゆび》を啣《くは》へてぴう/\と鳴《な》らしながら勘次《かんじ》の心《こゝろ》を苛立《いらだ》たせた。勘次《かんじ》は何《ど》れ程《ほど》それが激《げき》した心《こゝろ》に忌々敷《いま/\しく》くても其《そ》れを窘《たしな》めて叱《しか》つて遣《や》る何《なん》の手《て》がかりも有《も》つて居《を》らぬ。三|人《にん》は只《たゞ》默《だま》つて歩《ある》いた。
 社《やしろ》の森《もり》の外《そと》は白《しろ》い月夜《つきよ》である。勘次《かんじ》が村落外《むらはづ》れの家《いへ》に歸《かへ》つた時《とき》は踊子《をどりこ》は皆《みな》自分《じぶん》の嚮《むか》ふ處《ところ》に赴《おもむ》いて三|人《にん》のみが靜《しづか》に深《ふ》け行《ゆ》く庭《には》にぽつさりと立《た》つたのであつた。各所《かくしよ》の太鼓《たいこ》の音《おと》が興味《きようみ》は却《かへつ》て此《こ》れからだといふ樣《やう》に沈《しづ》んだ夜《よ》を透《とほ》して一|直線《ちよくせん》に響《ひゞ》いて來《く》る。唄《うた》の聲《こゑ》は遠《とほ》く近《ちか》く聞《きこ》える。夜《よる》は全《まつた》く踊《をど》るものゝ領域《りやうゐき》に歸《き》した。彼等《かれら》は玉蜀黍《たうもろこし》の葉《は》がざわ/\と妙《めう》に心《こゝろ》を騷《さわ》がせて、花粉《くわふん》の臭《にほ》ひが更《さら》に心《こゝろ》の或《ある》物《もの》を衝動《そゝ》る畑《はたけ》の間《あひだ》を行《ゆ》くとては、踊《をど》つて唄《うた》うて渇《かつ》した喉《のど》に其處《そこ》に瓜《うり》が作
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