むり》ではない。然《しか》し勘次《かんじ》の家《いへ》でおつぎの一|向《かう》針《はり》を知《し》らぬことは不便《ふべん》であつた。勘次《かんじ》もそれを知《し》らないのではないが、今《いま》の處《ところ》自分《じぶん》には其《そ》の餘裕《よゆう》がないのでおつぎがさういふ度《たび》に彼《かれ》の心《こゝろ》は堪《た》へず苦《くる》しむので態《わざ》と邪慳《じやけん》にいつて畢《しま》ふのであつた。其《そ》の冬《ふゆ》になつてからもおつぎは十六だといふ内《うち》に直《すぐ》十七になつて畢《しま》ふと呟《つぶや》いたのであつた。
「春《はる》にでもなつたらやれつかも知《し》んねえから」と勘次《かんじ》は其《そ》の度《たび》にいつて居《ゐ》た。おつぎは到底《たうてい》當《あて》にはならぬと心《こゝろ》に斷念《あきら》めて居《ゐ》たのであつた。それだけおつぎの滿足《まんぞく》は深《ふか》かつた。
 或《ある》晩《ばん》どうして記憶《きおく》を復活《ふくくわつ》させたかおつぎはふいといつた。
「井戸《ゐど》へ落《おつこと》した櫟《くぬぎ》根《ね》つ子《こ》は梯子《はしご》掛《か》けても取《と》れめえか」
「何故《なぜ》そんなこといふんだ」勘次《かんじ》は驚《おどろ》いて目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。
「そんでも可惜《あつたら》もんだからよ」
「汝《われ》自分《じぶん》で梯子《はしご》掛《か》けて這入《へえ》んのか」
「俺《お》ら可怖《おつかねえ》から厭《や》だがな」
「そんなこといふもんぢやねえ、又《また》拘引《つゝてか》れたらどうする、そん時《とき》は汝《われ》でも行《え》くのか」勘次《かんじ》は恁《か》ういつて苦笑《くせう》した。
 其《その》晩《ばん》は其《そ》れつ切《き》り二人《ふたり》の間《あひだ》に噺《はなし》はなかつた。

         八

 與吉《よきち》が五《いつ》つの春《はる》に成《な》つた。ずん/\と生長《せいちやう》して行《ゆ》く彼《かれ》の身體《からだ》はおつぎの手《て》に重量《ぢうりやう》が過《す》ぎて居《ゐ》る。しがみ附《つ》いて居《ゐ》た筍《たけのこ》の皮《かは》が自然《しぜん》に其《そ》の幹《みき》から離《はな》れるやうに、與吉《よきち》は段々《だん/\》おつぎの手《て》から除《のぞ》かれるやうに成《な》つた。それでも筍《たけのこ》の皮《かは》が竹《たけ》の幹《みき》に纏《まつは》つては横《よこ》たはつて居《ゐ》るやうに、與吉《よきち》がおつぎを懷《なつか》しがることに變《かは》りはなかつた。
 與吉《よきち》は近所《きんじよ》の子供《こども》と能《よ》く田圃《たんぼ》へ出《で》た。暖《あたゝ》かい日《ひ》には彼《かれ》は單衣《ひとへ》に換《かへ》て、袂《たもと》を後《うしろ》でぎつと縛《しば》つたり尻《しり》をぐるつと端折《はしよ》つたりして貰《もら》ふ間《ま》も待遠《まちどほ》で跳《は》ねて居《ゐ》る。
「堀《ほり》の側《そば》へは行《え》ぐんぢやねえぞ、衣物《きもの》汚《よご》すと聽《き》かねえぞ」おつぎがいふのを耳《みゝ》へも入《い》れないで小笊《こざる》を手《て》にして走《はし》つて行《ゆ》く。田圃《たんぼ》の榛《はん》の木《き》はだらけた花《はな》が落《お》ちて嫩葉《わかば》にはまだ少《すこ》し暇《ひま》があるので手持《てもち》なさ相《さう》に立《た》つて居《ゐ》る季節《きせつ》である。田《た》は僅《わづか》に濕《うるほ》ひを含《ふく》んで足《あし》の底《そこ》に暖味《あたゝかみ》を感《かん》ずる。耕《たがや》す人《ひと》はまだ下《お》り立《た》たぬ。白《しろ》つぽく乾《かわ》いた刈株《かりかぶ》の間《あひだ》には注意《ちうい》して見《み》れば處々《ところ/″\》に極《きは》めて小《ちひ》さな穴《あな》がある。子供等《こどもら》は其《そ》の穴《あな》を探《さが》して歩《ある》くのである。彼等《かれら》は小《ちひ》さな手《て》を粘《ねば》る土《つち》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]込《さしこ》んでは兩手《りやうて》の力《ちから》を籠《こ》めて引《ひ》つ返《かへ》す。其處《そこ》には鰌《どぜう》がちよろ/\と跳返《はねかへ》りつゝ其《その》身《み》を慌《あわたゞ》しく動《うご》かして居《ゐ》る。さうすると彼等《かれら》は孰《いづれ》も聲《こゑ》を立《た》てゝ騷《さわ》ぎながら、其《そ》の小《ちひ》さな泥《どろ》だらけの手《て》で捉《とら》へようとしては遁《に》げられつゝ漸《やうや》くのことで笊《ざる》へ入《い》れる。鰌《どぜう》は其《そ》のこそつぱい笊《ざる》の中《なか》で暫《しばら》く其《そ》の身《み》を動《
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