れ》はそんなこんなが不快《ふくわい》に堪《た》へないので次《つぎ》の日《ひ》野田《のだ》へ立《た》つて畢《しま》つた。
 野田《のだ》で卯平《うへい》の役目《やくめ》といへば夜《よる》になつて大《おほ》きな藏々《くら/″\》の間《あひだ》を拍子木《ひやうしぎ》叩《たゝ》いて歩《ある》く丈《だけ》で老人《としより》の體《からだ》にもそれは格別《かくべつ》の辛抱《しんぼう》ではなかつた。晝《ひる》は午睡《ひるね》が許《ゆる》されてあるので其《そ》の時間《じかん》を割《さ》いて器用《きよう》な彼《かれ》には内職《ないしよく》の小遣取《こづかひどり》も少《すこ》しは出來《でき》た。好《す》きな煙草《たばこ》とコツプ酒《ざけ》に渇《かつ》することはなかつた。暑《あつ》い時《とき》にはさつぱりした浴衣《ゆかた》を引《ひ》つ掛《か》けて居《ゐ》ることも出來《でき》た。其處《そこ》は彼《かれ》には住《す》み辛《づら》い處《ところ》でもなかつた。只《たゞ》凍《い》ての酷《ひど》い冬《ふゆ》の夜《よ》などには以前《いぜん》からの持病《ぢびやう》である疝氣《せんき》でどうかすると腰《こし》がきや/\と痛《いた》むこともあつたが、其《そ》の時《とき》丈《だけ》は勘次《かんじ》とまづくなければお品《しな》の側《そば》でおとつゝあといはれて居《ゐ》たい心持《こゝろもち》もするのであつた。生來《せいらい》子《こ》を持《も》つたことのない彼《かれ》はお品《しな》一人《ひとり》が手頼《てたのみ》であつた。お品《しな》に死《し》なれて彼《かれ》は全《まつた》く孤立《こりつ》した。さうして老後《らうご》は到底《たうてい》勘次《かんじ》の手《て》に託《たく》さねばならぬことに成《な》つて畢《しま》つたのである。それでも不見目《みじめ》な貧相《ひんさう》な勘次《かんじ》は依然《いぜん》として彼《かれ》には蟲《むし》が好《す》かなかつた。彼《かれ》は野田《のだ》へ行《い》けば比較的《ひかくてき》に不自由《ふじいう》のない生活《せいくわつ》がして行《い》かれるので汝等《わつら》が厄介《やくかい》には成《な》らねえでも俺《おれ》はまだ立《たつ》て行《い》かれると、恁《か》うして哀愁《あいしう》に掩《おほ》はれた心《こゝろ》の一|方《ぱう》には老人《としより》の僻《ひが》みと愚癡《ぐち》とが起《おこ》つたのであつた。卯平《うへい》は心《こゝろ》に涙《なみだ》を呑《の》んだ。
 勘次《かんじ》は悄然《せうぜん》として居《ゐ》た。與吉《よきち》が泣《な》く度《たび》に彼《かれ》は困《こま》つた。さうして毎日《まいにち》お品《しな》のことを思《おも》ひ出《だ》しては、天秤《てんびん》で手桶《てをけ》を擔《かつ》いだ姿《すがた》が庭《には》にも戸口《とぐち》にも時《とき》としては座敷《ざしき》にも見《み》えることがあつた。側《そば》に居《ゐ》るやうな氣《き》がして思《おも》はず顧《かへり》みることもあるのであつた。彼《かれ》はお品《しな》を思《おも》ひ出《だ》すと與吉《よきち》を抱《だ》いては「なあ、おつかあは居《ゐ》ねえんだぞ、おつかあが乳房《ちつこ》欲《ほ》しがんねえんだぞ」と始終《しじう》いつて聞《き》かせた。お品《しな》が居《ゐ》ないと殊更《ことさら》にいふのはそれは一つには彼自身《かれじしん》の斷念《あきらめ》の爲《ため》でもあつたのである。
 お品《しな》は豆腐《とうふ》を擔《かつ》いで居《ゐ》る時《とき》は能《よ》く麥酒《ビール》の明罎《あきびん》を手桶《てをけ》へ括《くゝ》つて行《い》つた。それで歸《かへ》りの手桶《てをけ》が輕《かる》くなつた時《とき》は勘次《かんじ》の好《す》きな酒《さけ》がこぼ/\と罎《びん》の中《なか》で鳴《な》つて居《ゐ》た。お品《しな》は酒店《さかだな》へ豆腐《とうふ》を置《お》いては其《その》錢《ぜに》だけ酒《さけ》を入《い》れて貰《もら》ふので豆腐《とうふ》の儲《まう》けだけ廉《やす》い酒《さけ》を買《か》つて勘次《かんじ》を悦《よろこ》ばせるのであつた。それはお品《しな》の死《し》ぬ年《とし》のことだけである。お品《しな》は漸《やうや》く商《あきなひ》を覺《おぼ》えたといつて居《ゐ》たのはまだ其《そ》の夏《なつ》の頃《ころ》からである。初《はじ》めは極《きま》りが惡《わる》くて他人《たにん》の閾《しきゐ》を跨《また》ぐのを逡巡《もぢ/\》して居《ゐ》た。其《そ》の位《くらゐ》だから變《へん》な赤《あか》い顏《かほ》もして餘計《よけい》に不愛想《ぶあいさう》にも見《み》えるのであつたが、後《のち》には相應《さうおう》に時候《じこう》の挨拶《あいさつ》もいへるやうに成《な》つたとお品《しな》は能《よ》く勘次《かんじ》へ語《かた》つたのであ
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