本意《ほんい》であつた。お袋《ふくろ》が死《し》んでから老《お》いた卯平《うへい》は勘次《かんじ》と一《ひと》つに成《な》らなければならなかつた。其《その》時《とき》はもう勘次《かんじ》が主《あるじ》であつた。さうして疾《とう》に自分《じぶん》の住《す》んで居《ゐ》る土地《とち》までが自分《じぶん》の所有《もの》ではなかつた。それは借錢《しやくせん》の極《きま》りをつける爲《ため》に人《ひと》が立《た》つて東隣《ひがしどなり》へ格外《かくぐわい》な値《ね》で持《も》たせたのである。それ程《ほど》彼《かれ》の家《いへ》は窮《きう》して居《ゐ》た。勘次《かんじ》には卯平《うへい》は畏《おそ》ろしいよりも其《その》時《とき》では寧《むし》ろ厭《いや》な老爺《おやぢ》に成《な》つて居《ゐ》た。二人《ふたり》は滅多《めつた》に口《くち》も利《き》かぬ。それを見《み》て居《ゐ》なければ成《な》らぬお品《しな》の苦心《くしん》は容易《ようい》なものではなかつたのである。
勘次《かんじ》に頼《たの》まれて南《みなみ》の亭主《ていしゆ》が話《はなし》をした時《とき》に卯平《うへい》はどうしたものかと案《あん》じた程《ほど》でもなく「子奴等《こめら》が困《こま》るといへばどうでも仕《し》ざらによ、仕《し》ねえでどうするもんか」と煙管《きせる》を手《て》に持《も》つて其《そ》の癖《くせ》の舌皷《したつゞみ》を打《う》ちながらいつた。南《みなみ》に居《ゐ》て案《あん》じながら挨拶《あいさつ》を待《ま》つて居《ゐ》た勘次《かんじ》は勢《いきほ》ひづいて
「そんぢや、おとつゝあ俺《おれ》行《い》つ來《く》つから」といつた。此《こ》の時《とき》ばかりは穩《おだや》かな挨拶《あいさつ》が交換《かうくわん》された。
勘次《かんじ》が居《ゐ》なく成《な》つてから卯平《うへい》はむつゝりした顏《かほ》に微笑《びせう》を浮《う》かべては與吉《よきち》を抱《だ》いて泣《な》かれることもあつた。與吉《よきち》は夜《よる》俄《にはか》に泣《な》き出《だ》して止《や》まぬことがある。お品《しな》が死《し》ぬまで被《き》て居《ゐ》た蒲團《ふとん》の中《なか》におつぎは與吉《よきち》を抱《だ》いてくるまるのであつた。與吉《よきち》が夜泣《よな》きをする時《とき》卯平《うへい》は枕元《まくらもと》の燐寸《マツチ》をすつて煙草《たばこ》へ火《ひ》を移《うつ》しては燃《も》えさしを手《て》ランプへ點《つ》けて
「おつかあが見《め》えんだかも知《し》んねえ、さうら明《あか》るく成《な》つた。汝《わ》りや※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、69−12]《ねえ》に抱《だ》かさつてんだ。可怖《おつかねえ》ことあるもんか」卯平《うへい》は重《おも》い調子《てうし》でいふのである。與吉《よきち》は壁《かべ》の何處《どこ》ともなく見《み》ては火《ひ》の附《つ》いたやうに身《み》を慄《ふる》はして泣《な》いて犇《ひし》とおつぎへ抱《だ》きつく。おつぎは與吉《よきち》を膝《ひざ》へ抱《だ》いて泣《な》き止《や》むまでは兩手《りやうて》で掩《おほ》うて居《ゐ》る。それが泣《な》き出《だ》したら毎夜《まいよ》のやうなのでおつぎは、玉砂糖《たまざたう》を蒲團《ふとん》の下《した》へ入《い》れて置《お》いて泣《な》く時《とき》には甞《な》めさせた。それでも泣《な》き募《つの》つた時《とき》は口《くち》へ入《い》れた砂糖《さたう》を吐《は》き出《だ》しては愈《いよ/\》烈《はげ》しく泣《な》くのである。おつぎは焦《ぢ》れて邪險《じやけん》に與吉《よきち》をゆさぶることもあつた。それで與吉《よきち》は遂《しまひ》には砂糖《さたう》を口《くち》にしながらすや/\と眠《ねむ》る。卯平《うへい》は與吉《よきち》が靜《しづ》かに成《な》るまでは横《よこ》に成《な》つた儘《まゝ》おつぎの方《はう》を向《む》いて薄闇《うすぐら》い手《て》ランプに其《そ》の目《め》を光《ひか》らせて居《ゐ》る。
與吉《よきち》はおつぎに抱《だ》かれる時《とき》いつも能《よ》くおつぎの乳房《ちぶさ》を弄《いぢ》るのであつた。五月蠅《うるさ》がつて邪險《じやけん》に叱《しか》つて見《み》ても與吉《よきち》は甘《あま》えて笑《わら》つて居《ゐ》る。それでも泣《な》く時《とき》にお品《しな》のしたやうに懷《ふところ》を開《あ》けて乳房《ちぶさ》を含《ふく》ませて見《み》ても其《そ》の小《ちひ》さな乳房《ちぶさ》は間違《まちが》つても吸《す》はなかつた。砂糖《さたう》を附《つ》けて見《み》ても欺《あざむ》けなかつた。おつぎは與吉《よきち》が腹《はら》を減《へ》らして泣《な》く時《とき》には米《こめ》を水《みづ》に浸
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