《とき》、種《たね》蒔《ま》く日《ひ》が僅《わづか》に二日《ふつか》の相違《さうゐ》で後《おく》れた麥《むぎ》の意外《いぐわい》に收穫《しうくわく》の減少《げんせう》した苦《にが》い經驗《けいけん》を忘《わす》れ去《さ》ることが出來《でき》なかつた。彼《かれ》は標準《へうじゆん》として教《をし》へられた其《そ》の日《ひ》を外《はづ》すことなく麥《むぎ》は蒔《ま》かねばならぬものと覺悟《かくご》をして居《ゐ》るのである。それと共《とも》に一|日《にち》でも斯《か》うして時間《じかん》を空費《くうひ》する自分《じぶん》の瘡痍《きず》に就《つ》いて彼《かれ》は深《ふか》く悲《かな》しんだ。然《しか》しそれで居《ゐ》ながら彼《かれ》は悲痛《ひつう》から來《く》る憤懣《ふんまん》の情《じやう》が、只《たゞ》其《その》瘡痍《きず》を何人《なんぴと》にも實際《じつさい》以上《いじやう》に重《おも》く見《み》せもし見《み》られもしたい果敢《はか》ない念慮《ねんりよ》を湧《わ》かしむることより外《ほか》に何物《なにもの》をも有《も》たなかつた。彼《かれ》は殆《ほと》んど絶對《ぜつたい》に同情《どうじやう》と慰藉《ゐしや》とに渇《かつ》して居《ゐ》たのである。
 畑《はたけ》の黒《くろ》い土《つち》にはぽつ/\と大根《だいこん》の葉《は》が繁《しげ》つて居《ゐ》る。周圍《しうゐ》に冴《さ》えた青《あを》い物《もの》は大根《だいこん》の葉《は》のみである。大根《だいこん》の葉《は》は、一|旦《たん》地上《ちじやう》の緑《みどり》を奪《うば》うて透徹《とうてつ》した空《そら》が其《そ》の濃厚《のうこう》な緑《みどり》を沈澱《ちんでん》させて地上《ちじやう》に置《お》いた結晶體《けつしやうたい》でなければならぬ。晩秋《ばんしう》の氣《き》は只管《ひたすら》に沈《しづ》まうとのみして居《ゐ》る。生殖作用《せいしよくさよう》を畢《をは》つた凡《すべ》ての作物《さくもつ》の穗先《ほさき》は悉皆《みんな》もう俛首《うなだ》れて居《ゐ》る。蟲《むし》の聲《こゑ》も地《ち》に沁《し》み入《い》らうとして居《ゐ》る。獨《ひと》り爽《さわや》かな緑《みどり》を與《あた》へられた大根《だいこん》の葉《は》も、幾《いく》ら成長《せいちやう》しても強《つよ》く引《ひ》き締《し》める晩秋《ばんしう》の氣《き》を受《
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