のさいてゐるのに氣が着いた。皀莢《さいかち》のやうで更に小さい柔かな葉が繁つて花はふさふさと幾つも空を向いて立つてゐる。すぐさま枝に手を掛けると痛い刺が立つた。放さうとしても逆さに生えた刺なのですぐには放れぬ。漸くで二房三房とつた。豆の花と同じ形のが聚《あつま》つてゐるのである。少し隔つてから振り返つて見ると滴る樣な新緑の間にほつほつと黄色い房のあるのは際立つて鮮かであつた。あとで聞いたら雲實《じやけついばら》とも黄皀莢《さるかけいばら》ともいふ花であつた。
岸が高いのに水が淺いといふのであるから兎にも角にも川をのぼつて行くことにした。樟《くす》の造林へは諦めをつけたのだ。季節は急に暑くなつて一兩日このかた單衣《ひとへ》に脱ぎ替へたのであるから水を行くのは猶更心持がよい。ころころといふ幽かな樣な聲がそこここに聞える。ぽしやぽしやと音を立てて行くと近い聲がはたと止つて何か知らぬが水へ飛び込むものがある。能く見ると底に吸ひついてゐる。そつと近づいて急に上から押へつけて攫《つかま》へた。蛙に似て痩せこけたるものだ。自分は必ず河鹿《かじか》であると悟つた。河鹿に極つてゐるのだ。圖解以外に河鹿を見るのは今が始めてで素《もと》より攫へて見たのもはじめてである。幽かなやうな鳴聲は河鹿の聲であつたのだ。自分は嬉しくて堪らなかつた。水の淺く且つ清いにも拘らず河鹿は底に吸ひつくと隱れた積りでじつとして動かぬ。自分は面白い儘に尚三匹ばかり採つた。さうして水際に生えてる蕗《ふき》の葉を採つてそつと包んで萱《かや》の葉で括《くく》つた。疎《まば》らな杉の木立の中に絲のやうな菜種のひよろひよろと背比べをして咲いて居る所へ出た。此處までは二三日前に來たことがあつたから八瀬尾の近いことも分つて安心をした。お秋さんは一人で醋酸石灰――之はどういふものかといふと炭竈の煙を横につないだ土管のなかを濳らせれば、煙は其間に冷却して燻り臭いひどくすつぱい液體になる。其すつぱいことといつたら顫《ふる》ひあがるやうだ。これが木醋といふので、これへ石灰を中和して仕上げたのが醋酸石灰で曹達《ソーダ》で仕上げたのが醋酸曹達となるのだ。説明はもう十分として置く――を造つて居た。酒の罎はお秋さんの手へ渡した。お秋さんはまあ濟みませんといひつつ丁寧に辭儀をしてすぐに炭竈の方へ行つた。河鹿は傍の水へ放した。鳴けばお秋さんが聞くのだ。毎日自分と一所にお秋さんの許へ落ち合つた島の人は此日はとうとう來なかつた。島といふのは佐渡のことで、佐渡の國から造林の見習に來て居る男で、佐渡には金北山といふ山がある筈なのにどうしたものかこんな山へ來てこれ程大きな峻《けは》しい山はまだ見たことが無いといつて驚いて居る男である。苗字《めうじ》が「けら」といふのだとかで蟲のやうな面白い人ですねとお秋さんがいつた男である。此男が來なかつたので何故だか心持がよかつた。
お秋さんは自分が樟《くす》の造林へ行かれなかつたことを非常に氣の毒に思つたらしかつた。爺さんも爐の側へ來て居てお秋さんの弟に案内をさせようといふのである。爺さんは小屋へ來れば屹度《きつと》爐の側に坐る。暑くつても坐る。弟といふのは體が圖拔けて大きいのでまだ十五だといつても自分よりは目から上程も大きい。のつそりとして草履の下へ入れた小石をごりごりとこすつてゐて行くとも行かぬともいはぬ。恥かしいのだ。お秋さんが脇へ連れて行つて何かいつたらそれで行くといふことに成つた。草履の丈夫なのをと探して居る。かうして居る所へ汚い着物を着た十三四の男の子が山桑を摘んで網に入れたのを背負つて登つて來た。お秋さんの側に寢て居た白犬が其子の足もとへ突然噛みつく樣に見えた。男の子は泣き出し相になつて自分等の所へ駈けて來た。お秋さんは赤い顏をして微笑しながら白を叱つた。叱つたといつてもやつとのことでいつたまでだ。白は再びお秋さんの側へ寢た。男の子の手に持つて居るのを取つて見たら楢《なら》の柔かに延び出した小枝のさきに青い團子のやうなものが二つくつついて居るのである。楢の木にはよくあるのである。お秋さんはそれを見て「ふぐり見た樣ですね」といつた。自分は意外であつた。お秋さんは眞面目である。能く聞いて見たらふぐりといつたのは鳶《とんび》のふぐりといふことで螳螂《かまきり》の卵のことだ相である。
四
六日目は谷も畢《をは》りの日である。此日は極めてはやく行つた。自分は既に八瀬尾の谷を辭する積りであつたがお秋さんが自分の爲めに特に醋酸曹達を造つて見せるといふ事であつたから一日延すことにしたのである。お秋さんはもう仕事場に仕度をして居る。爺さんは爐の側であつたが何か冴えない顏である。聞いて見ると小さな變事が起つたのだ。それは琉璃の子が一匹殘りに居なくなつたといふ事なので
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