ながら見て居ると、天井から藤蔓で自在鍵のやうなものをさげた。樅の棒はこれへ乘せ掛けたので差引が容易になる。案外な工夫である。これだから重い方が落ちついて扱ひいいのだと笑ひながら鍵の手を眞赤な炭に引つ掛ける。炭の折れることがあるとかちんと石のやうな響がする。樅の棒は見るうちに火がついてぽつぽと燃える。燃えても構はずに掻き出す。遂にはじうつと傍の流へ突つ込んで、更に水に浸して置いた鍵の手で掻き出す。少し掻き出すと一つに寄せてそれへ灰を掛ける。一遍出したら爺さんの顏も燒けた樣に眞赤になつた。何時でも拔いだことの無い獵虎《らつこ》の帽子をとつてだらだらと流れる汗を拭いて居る。獵虎の帽子は毛が七分通も落ちて居て汗の爲に餘つ程堅くなつて居るだらうと想像されるだけの品である。
お秋さんはどこからか青葉のついた小枝をがさがさといふ程掻つ切つて來た。炭は既に灰から掻き出されてあつたがお秋さんは直《すぐ》炭の碎けを篩《ふる》ひ始めた。乾燥し切つた灰は容赦もなく白い手拭へ浴せかかる。それで粉炭がどれだけ有つたといふと俵の底が隱れるだけであつた。直に炭を俵へつめる手傳にかかる。青葉のついた小枝はぐるつと丸めて俵の尻へ當てるのであつた。
お秋さんはこんなに忙しく仕事をして居たと思つたら、ふと見えなくなつた。自分は谷が急に寂しくなつた樣に感じた。尋ねるといふでもなく昨日炭木の運ばれた窪みを登つて行つた。眞急な崖へ瘤《こぶ》のやうにいくつもぼくぼく出た所に、草鞋で踏んだ樣に土のついた趾《あと》がある。瘤へ手を掛け足を掛け登る。お秋さんはそこの窪みに獨で枯木を挽《ひ》いて居た。傍にはもう十本ばかり薪が積んである。窪みは深さも大さも皿程である。密生した樹立は雫も滴《したた》るかと思はれて薄暗い。自分は薪へ腰を掛けた。お秋さんの手拭の絲目の交叉して居るのまでがはつきり見えるまでに近寄つた。お秋さんは兩足を延して左を枯木へ乘せて居る。鋸を押したり引いたりする毎に手拭の外へ垂れた油の切れたほつれ毛がふらふらと搖れる。懶《ものう》い樣な鋸の音の外には何の響もない。お秋さんは異樣な眞面目な顏で鋸から目を放さない。自分も腰を掛けた儘ほつれ毛と白い襟元とを見詰めて居るばかりである。物をいふのも惡いが默つて居ても却て極りが惡い。構はずにずんずん話を仕掛けたら善いぢや無いかといつたつてそりやさうはいかぬ。兎に角自分から口火を切つた。どんな事で口火を切つてどんな鹽梅《あんばい》に進行させたかといつたつてそれも言へぬ。お秋さんは餘計にはいはぬ。何處までも懶《うと》ましいのである。唯かういふことがあるのだ。此山蔭では蛙を「あんご」といふことや、蟷螂《かまきり》を「けんだんぼう」といふのだといふことやである。それから茸採《きのこと》りに行つて澤山あるといふことを「へしもに/\ある」といふのだといふことであつた。これでは笑はずにはゐられなかつた。自分は忘れた時の爲めにと思つて手帳を出したら偶然どこかの盆踊唄といふのが書いてあつたのを見つけた。「ことしの盆はぼんとも思はない、かうやが燒けても、もかりがぶつこけて、ぼん帷子《かたびら》を白できた」といふのである。これを聞かしたら「ぼん帷子を白できた。」といふのを繰り返しながら暫くは鋸の手を止めて居る。さうして自分を見た時にはいくらか寂しみを帶びた温かい微笑を含んで居つた。此所にもこんなのが有りますといつて「大澤行川《おほさなめが》の嫁子にならば花のお江戸で乞食する」といふのを低い聲でいつた。謠つたのではない。謠へば面白いのだが、お秋さんには迚《と》てもそんなことを爲《さ》せて見ようつて出來ないから駄目だ。それどころではない。少し聞き取れぬ所があつたので折り返して聞いたら赤い顏をして仕舞つたのである。これが谷の三日目である。
三
一日拔けて五日目になる。宿で麥酒《ビール》の明罎《あきびん》へ酒をこめて貰つた。八瀬尾《やせを》へ提げて行くのだ。爺さんの晩酌がいつも地酒のきついので我慢して居るのだと知つたからである。樟《くす》の造林から※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る積りで道を聞いて行つた杉の木深い澤を出拔けたら土橋へは出ないで河の岸へ降りて仕舞つた。變だと思つたが向うの岸に人の歩いたといふ樣な趾が見えたから水を渉《わた》つて行つて見た。芒や木苺が掩ひかぶさつた間に僅に身を窄《すぼ》めて登るだけの隙間がある。段々行くと木苺の刺《とげ》が引つ掛る。荊棘《いばら》はいよいよ深くてとても行かれる所でない。酒の罎も岩へ打つゝけたらそれ迄である。木苺を採つて食つた。黄色い玉のふわふわとして落ち相になつたのは非常に甘い。木苺といつても六尺もあるのだから手を延して折り曲げねばならぬ。ふと自分の近くの青芒の上に枝がかぶさつて眞黄な花
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