る。
自分が暇《いとま》を告げて出たらお秋さんは背負子《しよひこ》を負うて坂の中途まで行つて居た。坂を登らうとする時白は追ひ返されて降りて來た。自分は忽ちに追ひついた。さうしてお秋さんは何處まで行くのか知らんが、歩かれるだけ一所に歩く積りで成るべく靜に足を運んだ。お秋さんは「私と一所では暇がとれて迷惑でございませう」といつて頻りに急ぐ。身一つでも容易でないのに能くも足がつゞくものだと思つた。「此所へ鹿が立つて居たことがあります」と杉の木の下でいつた。そこには刺がびつしり生えて白い花のさいた極めて小さな木があつた。眞赤な枸杞《くこ》の實のやうなのがたつた一つ落ち殘つて居る。珍らしいから一枝折つたら「ありどほしの花でございます」とお秋さんが又いつた。坂を登り切つたら流石《さすが》に息苦し相に胡蝶花《しやが》の花の疎らな草の中へ荷を卸した。背負子を負ふために殊更小さな綿入のちやんちやんを引つ掛けたので體が何時もより小柄に見えた。手拭をとつたら顏が赤らんで生え際には汗がにじんで居た。うららかな日に幾らかの仕事をしてぽつとほてつて來た時は肌の色の美しさが増さるのである。白いものは殊更に白く見える。「あれこんな所に藤の花が」と樅の木を見てお秋さんがいつた。藤は散つたのもあつて房はもう延び切つてゐる。
樟の大木が掩《おほ》ひかぶさつて落葉の散つてある所を出拔けると豁然《くわつぜん》として來る。兩方が溪谷で一條の林道は馬の背を行く樣なものだ。兩側には樅の木の板がならべて干してある。いくらかの臭みはあるが眞白な板は見るから爽かな感じである。足もとから谷へ連つて胡蝶花《しやが》の花がびつしりと咲いて居る。「あなた一寸待つて下さい」といはれて振り返ると「大層臭いやうですがアルコールは零《こぼ》れはしますまいか」といふのである。背中の甕《かめ》の中には木醋から採つたアルコールが入れてあつたので、體の搖れる度にいくらかづつ吹き出すのであつた。お秋さんは右の手を拔いて左の肩で背負子を支へて左の膝を曲げてそつと地上へ卸した。持つてゐて呉れといふので自分は背負子を支へてゐる。一寸引つ立てて見たら重いのに喫驚《びつくり》した。お秋さんは手頃の石を見付けて來て栓を叩き込んだ。
小さな山々が限りもなくうねうねと連つて居る。格外の高低もない。峰から峰へ一つ一つ飛び越して見たいと思ふ程一帶に見える。渺
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