なる。
一八九八(明治三十一)年 正岡子規の「歌よみに与うる書」(新聞「日本」に二月〜五月連載)などを読み、子規に傾倒。六月、東京築地の山田病院に入院し、神経衰弱の治療を受ける。
一八九九(明治三十二)年 東京神田錦町の橋田病院に転院。五月頃に徴兵検査のために帰郷するが、不合格。「新小説」に短歌を投稿し、度々入選。
一九〇〇(明治三十三)年 三月二八日、根岸庵に子規を訪問。翌々日再訪し、「根岸庵」の十首を作る(「日本」に掲載)。四月一日、根岸庵歌会に出席し、生涯の盟友となる伊藤左千夫らを知る。
一九〇二(明治三十五)年 四月から「うみ苧集」を「心の花」に連載。五月、「日本」に「ゆく春」九首が掲載。九月十九日、子規逝去。翌日、上京する。
一九〇三(明治三十六)年 六月、「馬酔木」創刊。左千夫らとともに編集に加わる。夏に関西を旅し、一一月「西遊歌」を「馬酔木」に発表。
一九〇四(明治三十七)年 四月、「榛の木の花」を「馬酔木」に発表。五月、左千夫らと子規の作品を集成した『竹の里歌』刊行。八月、「夏季雜咏」を「馬酔木」に発表。
一九〇五(明治三十八)年 一月、「秋冬雜咏」を「馬酔木」に発表。八〜一〇月、房州、甲斐、諏訪、木曽を経て、関西に旅する。
一九〇六(明治三十九)年 七月、「炭焼の娘」を「馬酔木」に発表。八〜九月、松島、山形、新潟、佐渡などを約四〇日間旅する。
一九〇七(明治四十)年 五月、「早春の歌」を「馬酔木」に発表。一一月、「佐渡ヶ島」を「ホトトギス」に発表。
一九〇八(明治四十一)年 一月、「初秋の歌」を「馬酔木」終刊号に発表。二月、「晩秋雜咏」を「アカネ」創刊号に発表。一〇月、「アララギ」創刊。
一九〇九(明治四十二)年 一月、「濃霧の歌」を「アララギ」に発表。一〇月、平泉、弘前、十和田などを旅する。
一九一〇(明治四十三)年 六月一三日、「東京朝日新聞」で小説「土」の連載を開始。八月、入院して痔疾を手術。一二月、岐阜、京都を旅する。
一九一一(明治四十四)年 四月、医師黒田貞三郎長女照子と婚約。夏頃から、喉に痛みを覚えるようになる。一一月、上京して診断を受け、喉頭結核と判明。一二月、根岸養生院に入院し、自ら婚約を解消。一二月二四日、照子の来訪があったが会わずに終わる。
一九一二(明治四十五・大正元)年 二月、根岸養生院を退院し、東京下谷に滞在。同月、「病
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