げ]
既に五十日にも餘りぬれば我が病院生活も半を過ぎたらむと思ふに、待つ人の遂に來らねば徒らにおもひを焦すに過ぎず醫術の限を竭して後は病はいかに成り行くべきかと心もこゝろもとなくて、一月廿三日の夜いたく深くる程に筆とりて
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我が病いえなばうれし癒えて去なばいづべの方にあが人を待たむ

あまたゝび空しく門は過ぎゝとふ人はかへしぬ我が思止まず

癒えぬべきたどきも知らず病みたれば悲しと來しに我は逢はぬに

こゝにして來なば來なむと待つ人のこゝにも來ねばいつとてか見む

霜柱庭に立てれば石踏みて來とさへいひてやりける人を

いたづらに思ひたのめて人待つと氷は閉ぢて解けにけらずや

さきはひを人は復た獲よさもあらばあれ我が泣く心拭ひあへなくに

おほよそは心は嘗ていはなくに思ひ堪へねばいひにけるかも

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又庭にある山茶花のあはれにさきのこれるに僅に懷をやるとて
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打ち萎え我にも似たる山茶花の凍れる花は見る人もなし

山茶花のわびしき花よ人われも生きの限りは思ひ嘆かむ

山茶花は萎えていまは凍れども命なる間は豈散らめやも

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尚さま/″\におもひつゞけて
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我を思ふ母をおもへばいづべにかはぐゝもるべき人さへ思ほゆ

我病めば母は嘆きぬ我が母のなげきは人にありこすなゆめ

生命あらば見るよしもあらむしかすがに人やも母といはゞすべなし

我がおもふ人はさきはへ世の中のなべての母は皆嘆けども

おもかげに母おもひ見れば人遂に母たりなむと思ひ悲しも

我が母の肉《しゝ》のゆるびは嘆き故あを思ふ故にわれすべもなし

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一月廿六日、彼の袱紗ゆくりなく手にとることありしに、糸巻の型の染め抜かれたるが今更に目に映れば
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とこしへに解かむすべなし苧環《をだまき》のあまたはあれど手にもとれねば

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をだまきといへばすゞろに懷しき故郷の庭なる※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜のうへにも及びぬれば
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あまたゝび冬には逢へど枯れざりし庭の※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜《をだまき》かれなくてあれな

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此の日、ひねもすに雨ふる、なにごとにも母のおもひ出でられて
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我さへにこのふる雨のわびしきにいかにかいます母は一人して

いさゝかのゆがめる障子引き立てゝなに見ておはす母が目に見ゆ

張り換へむ障子もはらず來にければくらくぞあらむ母は目よわきに

こゝにしてすゝびし障子懷へれば母よと我は喚ぶべくなりぬ

※[#「耒+婁」、第4水準2−85−9]斗菜を母と二人が見てし日は障子はいまだ白かりしかど

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病室の内に雨を聽き暮して明くればまだきに彼の山茶花のもとに思ひ煩ひて
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からくして低きが枝にのこれりし山茶花のはな散りにけるかも

山茶花のはかなき花は雨故に土には散りて流されにけり

山茶花のあけの空しく散る花を血にかも散ると思ひ我が見る

山茶花はむなしくなりぬ我が病癒えむと告ぐる言も聞かなくに

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仔細に見るに葉の間に半開の蕾只一つすがりたるがいとほしくて
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山茶花よそをだに見むと思へるに散らなくあれな我が去ぬるまでに

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二月廿日といふに漸く病院を出づ、七十八日の間我を慰めし花は只一株の山茶花に過ぎざりけるを、けふを限りと復た更に其の傍に立ちて見るに、思はざる花の綻びたるがそれも彼方に一つ此方に一つと只二つのみに餘所にはふゝめる枝もなし、此の花遂に我がためにのみさきつくしけるにこそとさへ思ひいでられて
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我がおもふ人にあらなくに山茶花は一樹が枝に相隔りぬ

山茶花の畢《つひ》なる花は枝ながら背きてさけり我は向けども

山茶花のはなは見果てゝ去ぬらくに人は在處《ありど》も知るよしもなく

此の如ありける花を世の中に一人ぞ思ふ其の遙けきも

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三月七日、暫しが程と郷にかへる、三日ばかりして歸りこんと出で行きて既に四月にもなりたれば、あたりはさながら忘れ去りたるやうなるを一日二日とある程に
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ゆくりなく拗切《ちぎ》りてみつる蠶豆の青臭くして懷しきかも

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蠶豆はまだ短くして、たとへば土に落ちたる生石灰の石のやうなるが自ら水分をふくみてほとびつゝあるが如し、我も此より遠く西國の旅に赴かむとすれば
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蠶豆の柱の如き莖たゝばいづべに我は人おもひ居らむ


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