みて人の爪ぞうれしき
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健康者は常に健康者の心を以て心となす、もとより然るべきなり、只羸弱の病者に莅む時といへどもいくばくも異る處なきが如きものあるを憾みとすることなきにあらず
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すこやかにありける人は心強し病みつゝあれば我は泣きけり
三
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病院の一室にこもりける程は心に惱むことおほくいできて自らもまなこの窪めるを覺ゆるまでに成りたれば、いまは只よそに紛らさむことを求むる外にせむ術もなく、五月三十日といふに雨いたく降りてわびしかりけれどもおして歸郷す
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垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども
小さなる蚊帳もこそよきしめやかに雨を聽きつゝやがて眠らむ
蚊帳の外に蚊の聲きかずなりし時けうとく我は眠りたるらむ
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三十一日、こよひもはやくいねて
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廚なるながしのもとに二つ居て蛙鳴く夜を蚊帳釣りにけり
鬼灯《ほゝづき》を口にふくみて鳴らすごと蛙はなくも夏の淺夜を
なきかはす二つの蛙ひとつ止みひとつまた止みぬ我《あ》も眠くなりぬ
短夜の淺きがほどになく蛙ちからなくしてやみにけらしも
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夜半月冴えて杉の梢にあり
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小夜ふけて厠に立てば懶げに蛙は遠し水足りぬらむ
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六月一日、あたりのもの凡ていまさらに目にめづらしければ出でありく
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麥刈ればうね間/\に打ちならび菽は生ひたり皆かゞまりて
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幼きものゝ仕業なるべし
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垣根なるうつ木の花は扱き集《つ》めてぞろりと土に棄てられにけり
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夕近くして雨意おほし
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雨蛙しきりに鳴きて遠方の茂りほの白く咽びたり見ゆ
いさゝかは花まだみゆる山吹の雨を含みて茂らひにけり
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二日、雨戸あくるおとに目さむ
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おろそかに蚊帳を透かしてみえねどもしづく懶く外は雨なりき
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やがてしげくふりいづ
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つく/″\と夏の緑は快き杉をみあげて雨の脚ながし
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泥のぬかり足駄の齒にわびしけれど心ゆくばかりのながめせんとてまたいでありく
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鉈豆のもの/\しくも擡げたるふた葉ひらきて雨はふりつぐ
車前草《おほばこ》は畑のこみちに槍立てゝ雨のふる日は行きがてぬかも
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庭の枇杷ことしばかりはめづらしく果おほし
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枇杷の木にみじかき梯子かゝれどもとるとはかけじいまだ青きに
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雨をよろこぶこゝろを
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蕗の葉の雨をよろしみ立ちぬれて聽かなともへど身をいたはりぬ
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我が草苺を好むこと度を知らずともいひつべし、未だ甚だしく體力の衰へざりし程は一度に五合にのぼらざれば胸の爽かなるを覺えず、然かも日に幾たびとなくこれをくりかへして飽くこともなかりき、さるをことしは家を離れて久しくなりけるに市場に出でたるは嘗て手にだも觸れむとせざれば、日頃はさびしくあかしけるが、いまはうれしきは門の畑なり
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たらちねは笊もていゆく草苺赤きをつむがおもしろきとて
幾度か雨にもいでゝ苺つむ母がおよびは爪紅をせり
草苺洗ひもてれば紅解けて皿の底には水たまりけり
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三日微雨、人にあふこといできにたれば車に幌かけて出づ、鬼怒川をわたる
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みやこぐさ更紗染めたる草むしろしづかにぬれて霧雨ぞふる
口をもて霧吹くよりもこまかなる雨に薊の花はぬれけり
鬼怒川の土手の小草に交じりたる木賊の上に雨晴れむとす
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四日、晴れて俄に暑し、風邪引くことのおそろしくてためらひ居けるを、いまはなか/\に心も落ちゐたれば單衣になる
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とりいでゝ肌に冷たきたまゆらはひとへの衣つく/″\とうれし
くつろぐと足を外に向けころぶせば裾より涼し只そよ/\と
さやげども麥稈帽子とばぬ程みむなみ吹きて外はすが/\し[#「すが/\し」は底本では「すが/″\し」]
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暑きころになればいつとても痩せゆくが常ながら、ことしはまして胸のあたり骨あらはなれど、單衣の袂かぜにふくらみてけふは身の衰へをおぼえず、かゝることいくばくもえつゞくべきにあらざれど猶獨り心に快からずしもあらず
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單衣きてこゝ
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