に車馬を通ず、往昔の世山麓に浪士あり、四郎左衞門と稱す、人を殺し財を掠むること算なし、一女あり母を失ふ、四郎左愛撫措かず、女長じて容姿温雅、擧止節有り、竊かに父の爲す所を憂ひ、しばしば泣いて諫むれども聽かず、一日秋雨蕭々黄昏に至りてやまず、女乃ち決然として起ちて裝を旅客に變じて過ぐ、四郎左悟らず、遙かに射て之を斃す、其走つて嚢中を檢せんとするに及びて哀痛悲慟禁ずること能はず、剃髪して佛門に歸し、あまねく海内の名刹を周遊し、還りて石佛を路傍に建つ、大さ丈許、今に在せり、後四郎左天命を全うして佛の山に歿す、而して涙痕つひに乾くに至らざりきと云ふ
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よねをしね石田刈り干す、片庭の山裾村ゆ、下つ毛にこゆるみ坂の、たむけぢの佛の山に、去にし邊にありけることゝ、耳たえず我聞くことの、麓べに住みける人の、弓箭もち日にけに行けど、ほろゝ啼く雉子も射ず、萱わくる猪も射ずして、人くやと潛めるみちに、ちちのみの父が待つ子も、柞葉の母が待つ子も、たひらけく命全けく、こえ果つることもあらぬを、藁蓆しけこき小屋に、橿の實の獨りもり居る、處女子の藍染衣の、染糸のさめはつるまでに、うち嘆き訴へいへども、返り見る心もあらねば、眞悲しみ思ひ定めて、世の人のなげかふことを、我だにも死にてありせば、留む可きこともあらむと、父が行く佛の山を、草枕旅行く如く、たどり行き臥《こ》やせる時に、盜人に在りける父や、黄金にも玉にもまして、惜みける己が眞名子を、かゝらむと思ひもかけねば、叫びをらび心も空に、負征矢の碎るまでに、櫨弓の弦たつまでに、掻きなげく思ひつのりに、後つひに心おこして、建てにける佛の石の、朽ち果てぬためしの如く、うつそみのいまの世にして、この山を過ぎ行く人の、うれたみと聞きつぎゆけば、天地のながく久しく、かたり竭きめやも、

     短歌

劔太刀しが心より痛矢串おのが眞名子の胸に立てつる



底本:「長塚節名作選 三」春陽堂書店
   1987(昭和62)年8月20日発行
※「顔」と「顏」、「騒」と「騷」の混在は底本通りにしました。
入力:町野修三
校正:浜野智
1999年5月19日公開
2009年9月19日修正
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