手は太十の心には無頓着である。
「おっつあん殺すのか」
斯ういう不謹慎ないいようは余計に太十を惑わした。
「そうよな」
と太十は首をかしげた。
「どうせ駄目だから殺しっちまあべ」
威勢よくいった。そうかと思うと暫らく沈黙に耽って居る。
「殺した方あよかんべな」
投げ出したように低い声でいった。其処には対手に縋って留めてくれという意味もあった。だが殺すなという声は太十の耳に響かなかった。
「それじゃ思い切ってやっちまあんだな。どうせ見こまれちゃ駄目だからな。おっつあんそうするんだな」
太十は返辞をしなかった。然し彼の薄弱な心は大きな石で圧えつけられたように且つ釘付にされたように、彼の心の底にはそれが又厭であったけれどそうしっかと極められて畢った。彼の心は劇しく動揺して且つ困憊した。
「それじゃ三次でも連れて来べえ」
対手は去った。太十は一隅を外した蚊帳へもぐった。蚊帳の外には足が投げ出してあった。蠅が足へたかっても動かなかった。犬は蔭の湿った土に腹を冷して長くなって居た。二人は来た。三次は左の手を赤の腹へ当ててそっとあげた。後足は土について居る。赤はすっと首を低くしていつもの甘えた容子をした。犬には荒繩が斜にかけられた。犬は驚いてひいひいと悲愴な声を立てた。三次が手を放した時犬は四つ足を屈めて地を偃うように首を垂れて身を蹙めた。そうして盗むように白い眼で三次を見た。犬がひいひい鳴いた時太十はむっくり起きた。彼の神経は過敏になって居た。
「おっつあん」
と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたごろりとなった。
「おっつあん縛ったぞ」
三次の声で呶鳴った。
「いいから此れ引っこ抜くべ」
という低い声が続いて聞えた。
「おっつあん此のタンボク引っこぬくかんな」
其声が太十の耳に強く響いた。然し彼は黙って居た。二人は蜀黍の垣根に打ちこんであった棒を抜いた。三次は握って居た荒繩をぐっと曳くと犬は更に大地へしがみついたように身を蹙めた。三次が棒を翳した時繩は切れそうにぴんと吊った。其の瞬間棒はぽくりと犬の頭部を撲った。犬は首を投げた。口からは泡を吹いて後足がぶるぶると顫えた。そうして一声も鳴かなかった。
「おっつあん、うまくいっちゃった」
と先刻の対手は釣してある蓆から首を突っ込んだ。蚊帳の中は動かない。彼は太十の蚊帳をまくった。太十は凝然と目をしかめて居る。
「おっつあん、ありゃどうしたもんだべな」
「埋めてやってくろえ」
太十はやっとそれだけいった。
「それもそうだがな、片身に皮だけはとって置いたらどうしたもんだ」
「どうでも仕てくろえ」
蚊帳の中は依然として動かなかった。二人は用意して来た出刃で毛皮を剥きはじめた。出刃が喉から腹の中央を過ぎて走った。ぐったりとなった憐れな赤犬は熟睡した小児が母の手に衣物を脱がされるように四つの足からそうして背部へと皮がむかれた。致命の打撲傷を受けた頸のあたりはもう黒く血が凝って居た。裸にされた犬は白い歯を食いしばって目がぎろぎろとして居た。毛皮は尾からぐるぐると巻いて荒繩で括られた。そうして番小屋の日南に置かれた。太十は起きた。毛皮は耳がつんと立って丁度小さな犬が蹲って居るように見える。太十はそれが酷く不憫に見えた。彼は愁然として毛皮を手に提げて見た。
「おっつあん可哀想になったか」
と二人はいった。
「それじゃあとはおらが始末すっからな」
棒をそこへ投げ棄てて二人は去った。血は麦藁の上にたれて居た。三次の手には荒繩で括った犬の死骸があった。太十はあとでぽさぽさとして居た。彼は毛皮を披いて見て居た。彼は思いついたように自分の家に走って木の板と鉈とを持って来た。蜀黍の垣根に括った竹の端を伐って釘を造ってそうして毛皮を其板へ貼りつけた。悲しい一日が太十の番小屋に暮れた。其夜彼は眠れなかった。妄念が止まず湧いて彼を悩ました。うとうとして居ると赤が吠えながら駈け出したように思われてはっと眼が醒めたり、鍋の破片へまけてやった味噌汁をぴしゃぴしゃと嘗めて居る音が聞えるように思われたり、自分の寝て居る床の下に赤が眠って居るように思われたりしてならなかった。彼は更に次の日の夕方生来嘗てない憤怒と悲痛と悔恨の情を湧かした。それは赤が死んだ日に例の犬殺しが隣の村で赤犬を殺して其飼主と村民の為に夥しくさいなまれて、再び此地に足踏みせぬという誓約のもとに放たれたということを聞いたからである。彼は其夜も眠らなかった。一剋である外に欠点はない彼は正直で勤勉でそうして平穏な生涯を継続して来た。殊に瞽女を知ってからというもの彼は彼の感ずる程度に於て歓楽に酔うて居た。二十年の歓楽から急転し彼は備さに其哀愁を味わねばならなくなった。一大惨劇は相尋いで起った。
六
夜毎に月の出は遅くなった。太十は精神の疲労か
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