が所狹く湛へて居る。手を入れて見ると大垣の水よりも更に冽々として居る。柘植氏は稍得意である。其水の近くに一つの庵室がある。素心庵とかいふので白い衣の尼さんが居る。柘植氏はそこへ腰を掛ける。尼はもういゝ年のやうである。それしやの果であるとかでそれが此所に閑寂の生涯を營んで客に一杯の茶を鬻いて居るのだといつた。庵室の傍には小さい窯がある。尼は手すさびに陶器をも作るのだ相だ。それから又小さな長い紙袋へ入れたものを少しばかり商つて居る。それは葛粉で養老の葛は名物だといつた。そこを立つて道は狹い所を過ぎる。左はすぐに溪で既に散りはじめた櫻の薄紅葉が溪に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]んで其狹い道を掩うて連つて居る。其櫻の薄紅葉の行き止りに養老の瀧は白く懸つて居るのである。そこのあたりも右は瀧につづいた峭壁で左は溪で狹い所である。其峭壁のもとにはさつきの尼が出しておくといふ小さな四阿の店があつてそこに一人廿ばかりの女が居る。柘植氏は其四阿へ衣物を脱ぐ。余もそこへ衣物をぬぐ。女は少し隔たつた小さな板圍の建物から白の短い肌衣のやうなものを二枚持つて來てくれる。瀧に打たれるには此衣物を貸してくれるのだといつた。瀧にはさつきから二三人打たれて居る。白い布がふら/\と振れるやうに落ちかゝる瀧の水は其二三人の頭から分れて斜に飛び散つて居る。人々は大聲を出して呶鳴りながら打たれて居る。瀧へかゝるにはふどうオ/\と尻を引いて呶鳴りながらかゝるのだと柘植氏が教へる。余も柘植氏のあとから呶鳴りながら打たれはじめた。瀧壺がないから水が淺い。おづ/\かゝると突きのめされる。峭壁に後を向けてうんと力を入れる。それでも肩のあたりを攫へて突き倒されるやうな感じのする水の勢である。余は呼吸のつまらぬやうに兩腕を額で組んで後へ倚りかゝるやうにして水勢に抵抗する。更に向き直つて峭壁の瘤につかまりながら打たれつゝ瀧の端からはじまで過ぎて行く。瀧の幅は幾らもないがそれでも行きぬけるのには隨分骨が折れる。一打ち打たせて出ると體がいくらか疲れたやうである。瀧の側に立つて仰いで見ると峭壁の上部からさし出た槭の枝が疾風に吹き撓められるやうに止まずさわ/\と動いて居る。槭の葉はまだ青いのである。余等は肌衣を搾つて女に渡す。見ると柘植氏の皮膚が赤くなつて居る。更に自分の肩のあたりを見ると冷水摩擦をした時のやうに赤くなつて居る。瀧の冷たい水にかゝつたら凍えるやうになることかと思つたのにさうではなくてほか/\と温かい。此は強い勢で水が打ちつけるので肌に熱を持たしめるに相違ないのである。女は衣物を櫻の木へ掛けて干す。櫻の木にはさつきの人々のでもあらうか外にも二三枚掛けてある。女は無造作な帶の締めやうをして足には薙刀のやうにまくれた古い藁草履を穿いて居る。衣物を干すために延ばした其手が非常に白い。首筋も凄い程白い。女は衣物を干し畢ると落ち相になつた帶を兩手で一搖りゆりあげて暫く遠くを見て居た。其櫻の木のもとからは溪でそれから山の脚の間には美濃の平地が遙かに見渡されるのである。
女は余等がすつかり草鞋まで穿いてしまつた時、釜から湯を汲んで小皿に少しばかりの干菓子を出した。釜のあたりは清潔に掃いてあつて釜はちん/\と沸つて居る。其沸つて居るのは瀧の水である。女は物をいふ事には非常に愛嬌に富んだ少し味噌齒の口を開いて嫣然とする。菓子を一つとつて見ると辻占がはひつて居る。余は其辻占を一つあけて見たら青い字でごぞんじといふまでは讀めたが其さきは寫りが惡くて分らなかつた。(明治四十一年四月一日發行、アカネ第壹卷第參號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
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