あだ砂利がのめらねえかんね」
 馭者はズツクの外から口を出す。
「私だつて隨分辛らいんですよ」
 此度は女がいつた。
「そんならいつそのことみんなの膝の上へ横に成つたらどうですね、私らあ手の平へでも何でも乘せて置きますぜ」
「其方がお互に樂だね」
 電信工夫は口々にいふ。
「横に成つたら頭の處は私の膝へ持つて來てくれなくちや厭ですね」
一番鼻の工夫がいつた。
「さうすると私等は脚の番ですね、こりやちつと割負がしますね」
 女の隣の小商人らしいのまでが遂相槌打つて乘り出した。車中は俄にどつと笑つた。女も一緒に笑つた。さうしてすぐ平氣になつて袂から敷島を出して燐寸を五六本無駄にして吸ひはじめた。
 女と相對して襟卷へ深く顎を沒して居た彼は左の手を膝の荷物に掛けて右の手を黒羅紗の前垂の下へ差し込んで凝然として居る。彼は水戸の或通りへ近く洋物店を開く計畫を成就した。其傍酒と醤油を商ふことに極めた。彼は今廿四歳の青年である。暫く奉公をして年季の明けたのは廿二の暮であつた。それからは年の若いのと運が向かないのとで家へ歸つた儘そここゝと彷徨つて別に目に立つことも無くて過ぎた。然し二年間の境遇は悲慘であつた。境遇から彼は年齡よりもふけて見えた。客氣に驅られた彼は其間少なからず其心を苛立てた。彼の一家は以前から衰頽に傾いて居た。此の家運を挽回しようといふ希望は常に彼の心を往來して居た。廿四といふ今漸く彼を信じてくれる人が出來て或事情から閉店した洋物店を見つけてくれた。それは彼の老いたる父の世話に成つたことがあつて現に相應の地位にある人なので、舊恩に報ずる厚意であつた。資金の一部も其人の手を煩はしたので、加之後見までもしてくれるといふのである。彼は踴躍した。洋物は全く彼には無經驗であるが彼はそんなことを顧慮する暇さへ無かつた。それから彼の奉公したのは大きな小賣酒屋であつたので經驗のある酒醤油も併せてやることにした。一つには比較的大きな店に十分の洋物を仕込むのは資本の不足をも告げたのである。店の飾り方とか店を維持して行く方法とかよりも此を土臺に家運を挽囘しようといふのが彼の總べてを支配して居る。それでも譬へば老人に對したら女に對したらといふ客の待遇方法といふ樣な小さなことにも彼は頭を惱す。さうしては唯もう客にはお世辭をよくするまでのことだといふ簡單なことに考は何時も歸着してしまふのである。そんな心持からさつき女の荷物も態々とつてやつた譯で彷徨つて居た二ヶ月前の彼とは全く異つて居た。今此の極月の末といふに開店して初荷の賣出しを樂まうといふ手筈で店の方は大抵極りもついたし、彼は此を老いたる父母に告げようとして一先づ其家へ歸りつゝあるのである。
 彼はかういふ寒い日に麻の財布を肩にして草鞋穿で掛取に歩かせられたことが數次である。さうして兎に角縁のすれた小倉の角帶へ紺の前垂の紐を結んでぽんとそこを手の平で叩いた時はどう見ても番頭とより外見えぬ丈に其習慣は商人らしい姿に成つて居るのである。隨つて彼の頭は分時も商業を去らないのであるが何といつても年は若いし嘗て自分が主になつて營業したことがないので今一軒の店を持つと成ると身に餘るやうな心持にもなるし、熾な希望と共に何處かに不安の念が蟠つて時には非常な取越苦勞もすることがある。比較的どつしりとはして居ても心の内はそわ/\と落付かないやうで近來は新聞を讀んで居ても酷く身にしみないといふやうな状態で絶えず心の底からむか/\と或物が込み上げて來るやうに感じて居る。顧客はどうしてつくるといふ胸算はあるけれども一人でもまだ定まつては居ない。大きな店の主人に成ることではあるが眞實まだ本當の商人には資格が備らぬ樣な氣もして成らぬのである。然しながら彼の希望は彼の精神を作興し彼を活かしたことは事實である。洋々たる前途を思ふ時彼は何時も身體に力がはひつてぶる/\つと震へる樣に感ずるのである。彼はかうした責任の重い身を水戸から汽車に搖られて來た。さうして野中の道を又馬車に揉まれつゝ行くのである。馬車は停車場からすぐに遠く開けた田甫へ出て南へ走る。刈田を渡る西風は依然として強く、垂れたズツクを飜して吹く。田甫が盡きて小さな坂一つ上れば麥畑へ出る。乾燥した麥畑は埃で霧が立つたやうである。とある村で馬車はとまる。馭者はかじけた手で柄杓の柄を握つて馬の口をしめす。立場の婆さんが煙草の火とそれから九人前の茶を出す。一番端に居る女は盆を受取つて
「さあ皆さんどうです」
 盆を先へ廻さうとする。
「まあどうぞさうして」
「どうもあなたの手からの方が甘いやうですから」
 抔と例の工夫は戲談を止めない。女はまた左の手に盆を持つた儘敷島に火を點けた。茶碗がみんな盆へもどつて五厘の銅貨が一つ宛茶碗の底にはひつた時女は帶の間から二錢の銅貨を出してぽんと盆へ
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