余は實際能を見たのは生來此の日がはじめてゞある。然かもかういふ孤島の僻邑に能の催しがあらうなどゝは夢にも思ひ設けなかつた所である。其見物人といふのが大抵は百姓や漁夫のやうなものであるだらうがそれが子供に至るまで靜肅にして居たのは意外であつた。其役者といふのが桶屋や石屋や宿屋の主人などでありながら相應に品位を保つて見えるのも向鉢卷をとつたことのない博勞の平内さんが能の智識のあるのを見ても此の島の人の心に優しい處のあるのが了解される。博勞が遭うた其日から懇切であるのも宿屋で出掛に必ず草鞋を一足くれるのも小木の宿屋の美人が洗濯をしておいてくれたのも皆此の優しい心の發動でなければならぬ。佐渡といふと昔は罪人の集合所であつたやうに思つて居たのであるが清潔なる島の空氣は彼等の感化のためには穢れなかつたと見えるのである。博勞は此の夜も余と共に泊つてしまつた。
此の所は越後の寺泊と相對した赤泊の漁村である。
六 草鞋
夜明にうと/\として居るとばら/\と雨が廂を打つ。又うと/\としてふと枕を擡げると博勞は既に起きて蒲團の上に煙草をふかして居る。まだ雨だらうかと聞くと日和だ/\と障子を開けて見せる。さつきのは通り雨であつたのだ。客がみんな爐の側に聚つた。越後の博勞だといふ胡麻鹽頭の男も此の宿に泊つたと見えて爐の側へ來て居る。客の膳が悉く爐のほとりへ運ばれる。宿の亭主も一所に飯をくふ。亭主といふのは五十格恰の恐ろしい噺好きの男で一箸目には喋舌つて居る。相手が皆去つてしまつたら余を攫へて喋舌る。佐渡といふ所は氣候がいゝ上に桑が自然に生えて居るのだけれど惜しいことに養蠶に熱心するものがない。まあ氣候がいゝから何も知らずに飼つても二年や三年は當るが其うちに癖がはひるともう呆れてしまふといふので情ないことだ。本當に此所へ來て養蠶をしやうと思ふものがあれば五枚や十枚の種紙ならば人が手傳つても桑位は摘んでやる。兎に角人氣がいゝのだから人の桑だつて少しばかり摘んだのでは泥棒だなどゝ騷ぐものはないとこんなことを喋舌る。客の膳が引かれて給仕の女房がお鉢を隅へ押しつけて去つたのも知らずに喋舌る。亭主は一人でお鉢を引きつけて盛つては喰ひ盛つてはくひ五杯六杯とくふのである。余は博勞の平内さんと宿の裏へ出る。うらはすぐに汀で船が一艘繋いである。牛がぞろ/\と曳かれて來る。孰れも人の腹あたりまでしかない小さな牛である。孤島の産物は孤島相應の躰格しか持つことが出來ないものと見えて此間中から見る牛は殆んど狗ころでもあるかと思ふ程小さなものばかりである。亭主は此所でも喋舌りはじめた。佐渡の牛は藁沓を穿かなくても自由に山坂を歩く。それが便利だといふので仰山飛彈の國へ賣れる。飛彈の國へ牛を曳いて行つたものは谷を籠で渡されることがあるが渡しの途中で綱がだん/\たるむとみんな眞蒼になつて籠が向へついた時にはもう死人のやうになつてしまふ。此所の人はどこへ出るにも船だから海はちつとも驚かないが飛騨の籠渡しでは慄へてしまふ相だと亭主がいつた。岸から船へ板を渡して水夫が三人ばかりで牛を船へ引つ張り込む。牛は板を渡つても船へはどうしてもはひるまいとする。さうすると一人の水夫が後から牛の臀をぐつと持ち揚げて押し込む。一杯に糞のついた臀でも構はずに持ちあげる。牛が悉く積まれた時余は平内さんに別を告げて船へ乘つた。平内さんは此時は鉢卷はして居なかつた。水夫の一人は余の草鞋を汀の水でざぶ/\と濯いで舷へ括りつけてくれた。十一反の白帆が檣に引き揚げられると船はゆらり/\と岸を離れる。舳からとり舵と船頭が大聲で呶鳴ると舵がぎいつと鳴つて舳が稍南の米山へ向いた。船はゆるやかに搖れて搖れる度に赤泊の漁村の上に五寸一尺と連山が聳えて來る。兩方の舷から屋根を葺いたやうな櫓といふもので船は掩はれて居る。其櫓の中心から檣が立つて居る。余は櫓へ乘つて檣のすぐ下で横になる。空は水の如く澄んで居る。海は空の如く靜かである。空氣は冷かである。此の冷かな空氣を透して日光がぢり/\とさす。白帆は余がために日覆の如く此日光を遮るのである。白鳥の翼でなでるやうな軟風が時々そよ/\と渡つて來る。白帆はふつと膨れると耳もとで帆綱がぎり/\つと鳴つてやがてばさ/\とたるむ。船頭は余の近くで舵へ手を掛けて悠然と煙草を燻らして居る。余は日のあるうちに寺泊へつけるかと聞いたらいゝや此牛は柏崎へ積んだのだ。さうさ此の鹽梅では夜中でなければ柏崎へはつけまいといふのである。赤泊を出帆する時に舳を米山に向けたのを變だと思つたのであるが此れは以ての外の失策をしてしまつた。寺泊へ渡つて日頃目について居た彌彦山へ登らうと思つて居たのであるが柏崎からでは十一里も戻らねばならぬ。もう悔いても間に合はぬ諦めるより外はない。余は荷物を枕にしてうと/\
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