と此れはボンと鳴つた。互に鼓を打つて居ると左の方の幔幕がまくれあがつたと思つたら網代の笠をかぶつて右の手に青笹を擔いで一人表はれた。此が三井寺の狂女といふのだと心のうちに思ふ。狂女は造りつけたやうな姿勢でそろ/\と歩く。二間ばかりで板の間へ出る。板の間へ出るとこちらを向いて以前の速度を以て歩いて來る。狂女の衣裝は燦として美しい。然かも古色を帶びて居る。左の手は四本の指を揃へて袖口をぎつと押へて突つ張つて居る。板の間を擦つて一歩々々と踏み出す白い足袋の先が目につく。青笹も笠もとつて捨てた所を見ると下は温い相貌を含んだ假面である。白く塗つた假面はこれも古色を帶びて居る。假面に鉢卷した紐がぱらつと後へ垂れて居る。假面から少し下へ顎が出て見えるが其顎から汗がぽた/\とこけて來る。後ろの幔幕について居る男が時々白紙を以て後から汗を拭いてやる。狂女は白い足袋の先を踏み出し/\蛙聲の如き謠につれて板の間を舞ひめぐる。極めて鈍い運動であるが骨が折れるかして舞ひながら手元が絶えずぶる/\と震へて居る。「三井寺では子役が居ないのですかといふ聲が余の耳もとで聞えたので振りかへると余の側に立つて居た一人が相手に噺をしかけたのである。これがさうですと相手はすぐ眼の前を指す。白衣の子役は閾一つを隔てゝ見物と並んで坐つて居るのであつた。相手は更に「アレは小木の桶屋だ相ですねと狂女をさしていつた。余は此を聞いてさつき博勞をたづねる時分に大桶へ箍[#「箍」は底本では※[#「竹/匝」、370−7]を打込んで居た桶屋のことを思ひ出してあゝいふ職人仲間にこんなものがあるのかとゆかしい心持を禁じえなかつた。軈て狂女が二三歩すさつて中綮持つた右の手と右の足とを突き出して腰をぐつと後へ引いて假面が屹と青竹の櫓を見あげた時に「アヽいゝと際どい聲が又余の耳もとで響いた。見ると博勞が向鉢卷をした首を曲げて反齒の口を開いて見惚れて居るのであつた。三井寺が濟むと本堂一杯であつた見物が一齊にわあ/\と騷がしくなつた。更に番組は鉢の木が濟むと板の間の四隅には荒繩を引つ張つてランプが吊された。見物が漸く動いて余等の前は疎らになつた。余は閾際まで進んだ博勞を見ると何時の間にか胡麻鹽頭の男と噺をして居たが余を見ると明日は此人が牛を越後へ積んで歸るといふから乘せていつて貰ふことにしたがよいと其男に余を紹介した。二人は牛がどうとかいふことを符貼交りに云うて平内さんが相手の袂へ手を入れて二人で握り合うたと思つたら平内さんは其癖の大聲を出してそりやあんまり安く買つたなあといひながら口を鉗んで向鉢卷した頭を横に曲げた。又鼓が鳴つて船辨慶がはじまつた。板の間に居る辨慶と幔幕がまくれて出た靜とが悠長に應答をする。辨慶は八字に髭のある大柄な男で時々瞼をぱち/\と叩く。靜が板の間の中央に蹲ると後ろの幔幕の際に居た男が金烏帽子をかぶせた。其男がどうも見たことのある顏だと思つたら此れは小木の宿屋の主人であつた。袴をつけて端然たる姿が餘り變つたので一寸見には分らなかつたのである。余は此の博勞に話すとアヽ鉢の木の仕手を舞うたのがさうだ。どうも能う舞ふといつた。烏帽子をつけた靜が白い足袋の先をそつと出し/\舞ひめぐる。四隅に吊つたランプの光が烏帽子に輝き衣裝に輝いて美しい。「アレは小木の石屋でワキなら何でも務めるのだと博勞が語る。靜が去つて知盛の幽靈が薙刀を振り廻して出た。薙刀は時々ランプを叩き相になる。其度毎に薙刀の刃がぴか/\と光る。能く見ると銀紙が貼つてあるので處々皺がよつて居る。長い髮をかぶつて伏目に荒れ廻る知盛の顎は赤い布で包んである。辨慶が頻りに珠數を押し揉んでは押し揉む。博勞は此時突然「此辨慶珠數の房を振るすべ知らんと叫んだ。余は辨慶に聞えはせぬかと心配した。板の間近く膝に抱かれて居た子供が薙刀に驚いたはづみに持つて居た梨を落した。梨はころころと板の間の中央まで轉つて行つた。外はまだ黄昏である。婆さん達の店が片づけにかゝつて居る。余は先程婆さんの箱の中に椿の葉へ乘せた米饅頭のあつたのを見ておいたのでそれを一包買つてやつた。婆さんは此れは椿ダンゴといふのだといつた。草鞋も足袋も手に提げたまゝ博勞に宿へ案内されて行く。本堂の庭から石段をおりる。途々聞くと佐渡には二派の能の先生があつた。此の博勞の平内さんも若い時分には先生に跟いて歩いたことがある。其後平内さんの先生の方は衰微してしまつて今日の一味だけが立派に立つて居る。然し平内さんの先生には名作の翁の假面が秘藏してあつた。百兩の値打はあると一口にいつて居たのであるが五六年前の洪水で家も藏も流されて其假面も一所に失つてしまつた。それは海へ落ちたのであつたと見えて後に磯へ打ちあげられたのを漁夫が拾つたけれど其時には鼻も缺けて元の姿はちつともなかつたといふのである。
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