となる。海は極めて靜穩であるが沖へかゝつてからはノタといふ波が大きく搖れるので船が大きくゆらり/\と搖れる。搖られながらうと/\となつて居ると帆綱が絶えずぎり/\つと軋つては白帆がばさ/\とたるむ。醉醒に水は毒だようと舵取の唄ふ追分の聲が耳に響く。突然にもう國境は越したかなと一人の水夫が呶鳴つた。余はむつくり起きて見ると佐渡は驚く許り遠くなつて土手のやうに山が連つて居る。彌彦山は岩の崩れた趾も明かに見えるやうに近よつて居る。米山はまだぼんやりとして南方遙かに遠い。櫓の下で牛がどた/\と騷ぎ出した。水夫が三人同時に覗き込んで際どい聲で怒鳴りつけた。牛はぴつたり靜かになつた。余も櫓から覗いて見ると牛はひし/\と二側につめられて角がぎつしり舷の所で横木に括られてある。此時まで余と枕合になつて居た胡麻鹽頭の博勞がむつくり起きて突然にどうだといふと舵とりの男は佐渡あらしならいゝが南だからどうも駄目だ。出雲崎へ向けて見ても煽られるんだから今日は柏崎は御免だ。出雲崎へつける位なら一層寺泊の方がよからうといふと運賃が十五圓ばかり狂ふがいゝや仕方がねえと胡麻鹽頭のフケを掻き落しながら博勞がいつた。どうやらこれでは寺泊へ行けるらしい。最初の目的が達せられるかと思ふと心中窃に悦ばしさを禁じえなかつた。あんまり彌彦山が近くなつて居たと思つたのも道理であつた。寺泊へついたのは五時頃である。磯へつくと船はぐるつとめぐされて艫が波打際まで突きあがる。余は笠と※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、376−6]を投げ出して草鞋と荷物とを手に提げたまゝ波の引いた途段に磯へ飛びおりた。一日の航海中牛は逐に一聲も鳴かなかつた。
佐渡を見ると悠然として海を掩うて長く横はつて居る。大きな馬盥に水を一杯に汲んで鍋葢を浮べれば鍋葢のとつ手を横から見たのが佐渡が島である。鍋の底から燃えあがつた焔のやうな夕燒の空が佐渡を包んで平穩な海一杯にきらめいて居る。佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた。三日は雨であとの一日丈が晴れたのであるが其雨の日に相川の金坑を見てこんなことがあつた。初めは工場の殺風景に驚いたのであつたが泥を溶いたやうに濁つた濁川といふ小さな溪流の岸に沿うて行くと高い支柱を建てゝ大きな箱戸樋が連つて居る。箱戸樋は溪流について屈折して走る。所々僅に紅した蔦の葉が支柱に絆んで戸樋を偃うて居る。
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