青芝へ氷雨の如く打ちかゝる時に牡鹿が角を振り立てゝ此岬に突つ立つ所を想像して見た。
九月九日
▲會津に入る
草葺ばかりのみじめな米澤の市中は戸が漸くあいた所である。老女がまだねくたれ髮を掻かぬ姿といつてやりたいやうだ。機《はた》の聲のみが忙しく響く。
小さな峠を一つ越えて關町といふ村で提げて來た小包を出した。郵便局といつても事務員がたつた一人しかなかつた。二三町來ると其事務員がお客さん/\といつて追ひ掛けて來た。局へ殘す筈の受領證を渡して仕舞つたから換へて呉れとお辭儀をするのであつた。あたりには白苧《しらそ》が干してある。
又峠になる。大臼のやうな炭俵を背負つた女達がおりて來る。二尺ばかりの短い棒を手に/\持つて居る。棒を俵の尻へ當てると立つた儘に休むことが出來るのである。牛追が杓子のやうなものを杖について居るので何をするのかと聞いたら牛の腹の蠅をぺた/\と叩いた。網木の村へおりる。出羽の地もこれ限りである。溪流を引いて麻を浸した淺い池が所々にある。モツペを穿いた女どもが晒した麻の皮を扱いて居る。家がみんな荷鞍ぐしだ。荷鞍ぐしといふのは棟が千木を建てたやうになつてるのである。
檜原峠へかゝる。峠のやうな峠である。山が深いだけに溪流が大きい。汀には竹林の如き虎杖がまだ花をもつて居る。道は又他の溪流に添うてのぼる。兩方から一丈餘りに延びた蓬が茂つて、撓むまでさいた鳥兜《とりかぶと》草が丈を爭うて立ち交つて居る。一丈餘の蓬で箸を折つて見たらやつぱり蓬のかをりがした。頂上まで蓬や鳥兜草が繁茂して居るが頂上に至るまでそれが兩側二尺ばかりは薙ぎ拂はれてある。馬や牛を牽いて草苅がこんな所まで來ると見える。頂上は國境である。
會津へ一歩くだれば一變して山毛欅《ぶな》の深林になる。梢には霧の如く白雲がとざして雨になつた。蓙が雨のためにしめつて板のやうに強ばつて來たら山毛欅が竭きて橡の林になつた。雨がやんだ。橡の葉は既にいくらか黄ばんで居るので林は急にからつとして來た。溪流の響きが漸く聞える。橡の林を出た。白衣の行者が五六人桐油で包んだ大きな幣束を擔いで峠へかゝる所である。見あげるとまだ雲がある。行者はぬれに行くのである。
忽ち一大湖水が現はれた。鬱然たる周圍の樹木を浸して居る。湖水に迫つて大きな茶店があつて二階には※[#「鼠+占」、343−1]でも住み相である。店には煤けた障子が締め切つてあつて障子の破れがふら/\と搖れる。此怪しげな茶店で峠で切つた草鞋を穿きかへる。旅客の穿き捨た草鞋が障子の蔭に堆く積んである。ぬるい茶をのみながら女房がしみ/″\といふ噺をきく。湖水は以前は萱原であつたが磐梯山が破裂した時に土灰が一方を塞いだ爲め水は落ち行く瀬を失つて此の如く湛へたのである。湖水の底には四ヶ村が埋沒して居る。二十戸の村で纔に七人のみが生きた所もある。最も悲慘であつたのは山の畑へ稼ぎに行つた老人である。磐梯山にあのやうな烟の立つ筈はない。山の凶事であるかも知れぬと二人の子を促して慌てゝ駈け出したのであつた。二人の男の子は血氣であつただけに危い命を拾つて逃げおほせたが老人は足のつゞかなかつた計に何處で泥土に埋まつたか遂に歸つて來ない。破裂のあとは七日まで山の鳴動が止まぬので檜原の村では家財を悉く馬に乘せて夜は殊に恐ろしさに堪へ兼ねて逃げようとしては流石に躊躇して夜を明すといふうちに山の騷ぎが止んだのである。知つた人が埋つて居ると思ふと船で渡るのも心持が惡いといつて女房はぽつさりとする。榾が燻ぶつて青い烟が天井をめぐる。
茶店のうしろには疎らな桑の立木があつて其間に菽が作つてある。狹い畑は二三歩ですぐに汀へおりる。湖水を隔てゝ遙かな草山の裾にぽつ/\と四角な白いものゝ見えるのは秋蕎麥の畑である。
道は湖畔に添うて稍高くなる。湖水を見渡すと汀をめぐつて白骨の如き枯木が水中に亂立して居る。大樹は枝幹其儘で小樹は手の骨や足の骨を立てならべた如くに短く朽ちて居る。枯木がなかつたら檜原湖は唯幽邃な湖水であつたに違ひない。凄いものは此水中の枯木である。小舟が一つ枯木に繋いである。
磐梯山も雨が晴れた。急峻な山腹を今一朶の雲が駈けのぼるやうにして頂から横に走つて山を離れると磐梯の全形が明かである。湖畔から見る磐梯山は殆んど破裂の趾のみが表はれる。頂から地盤の底まで唯一刀の下に截斷し去つたやうなのが破裂面である。其形状は例令ば錆びた大釜の破片を立てた如くである。大釜の形体が若し全くあつたならば磐梯山をも容れることが出來るだらうと思ふ程大きな破片である。其所々から烟草の烟の如き白烟が立つ。其所が現在の噴火口である。湖畔の崕には芝蓬が生えて其傍を過ぎる時はまだ濡れて居る四五本の芒の穗がゆるかに搖れて恐ろしい磐梯山の面を撫でるやうに見える。
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